本日のメインディッシュ
「…これでよし、と」
こねたパン生地を滑らかな球にしてからボウルに入れ、中央に指を挿してガス抜き用の穴をあけると、クリフトは小さく息をついた。
パンをこねる作業はなかなかに体力がいる。ましてやここは揺れる船の調理場。そして分量は八人分だ。
額にうっすらとかいた汗を無意識に手の甲で拭う。
拭ってから、自分の手が粉だらけだったことにクリフトは気がついた。思わず苦笑いして、傍にあった新しい布巾で拭き直す。
炊事全般担当。それはクリフトの大切な役目だった。
おいしく、かつ栄養バランスのよい食事を八人分、彼は楽しみながら器用に作ってみせる。
調理だけではなく、食材の調達や保存食の管理、はては食費のやりくりまでもが彼に一任されていた。
大量のパン生地と格闘したせいで、やや疲労が溜まっている右腕を左手で軽く揉み解しながら、クリフトはゆっくりと調理場を見渡した。
昼食の後すぐに仕込み作業をし、とろ火でことことと煮込み続けたトマトスープは、今が一番おいしい頃だろう。まだ陸を離れて二日、サラダにできる新鮮な野菜も洗って用意してある。後はこのパン生地の発酵を待ってから、形を整えてオーブンに入れるだけ。
夕食の準備はほぼ整った。…しかし、肝心のメインの食材がまだ、届いていない。
『さばくのに一苦労するくらいの大物を釣ってくるからね!』
『俺、釣りは得意なんだ。任せとけ!』
息を弾ませ、目をきらきらさせてそう告げたアリーナとノイエの二人が甲板へ向かって走っていってから、もう数刻が経つ。二人のことだ。一匹でも釣れたなら必ず大喜びで報告にくるだろう。
当たり前だが、魚がないと魚料理は作れない。このままでは夕食のメニューを変えねばならない。
クリフトは徐々に膨らんできたパン生地の表面を軽くつついた。返ってくる手ごたえはまだ頼りない。
…焼くには早い。時間はもう少し、ある。
スープ鍋の下の火を消し、エプロンを外すと、彼は調理場を後にした。
みゅう… みゅう…
甲板への扉を開けた途端、カモメの鳴き声と共にクリフトの耳に飛び込んできたのは、アリーナとノイエの声。
「あ、あー…あ? アネイル」
「る? る、るー、るー…、ルーラ」
「ら!? またラかよ。ラ、らぁ…、うぅ〜」
ロープが入った箱に腰掛け、海に向かって釣り糸を垂らしながら、何故かしりとりをしている二人。その背中には「暇だ」と書いてある。
確実にまだ一匹も釣れていない。クリフトは確信した。
そっと近づく。それでもアリーナはすぐに気がつき、クリフトのほうを振り返って軽く手を振ってきた。
ノイエはまだ、らーらーと歌うようにつぶやきながら緑の髪をいじっていたが、やがてその手がぴたりと止まる。
「おぉっそうだよ! ら、身近にいるじゃん! ライアン!!」
なんとも得意げに、自信満々でそう言い放ったノイエ。だが、すぐに自分のミスに気がついた。
「…馬鹿だ、俺……」
「ノイエの負け〜。三連敗はすごいよね、クリフト」
「ははは…」
「お、クリフトいつの間に」
「つい先ほどです」
「ごめんね。実はまだ釣れてないの」
アリーナの眉がぐっと寄る。
「八人分くらいすぐに釣れると思ったんだけど…。風がなさ過ぎるのかな」
確かに今日は風が弱く、船の速度もかなり遅かった。
「いや、こんくらいゆるゆるのほうが、流しながら釣るにはいいらしいぞ。
そもそも陸から釣るときなんて止まってんじゃん」
ノイエは釣竿の先を海面すれすれまで落とし、そして右上に素早く跳ね上げた。
餌を生きているかのように見せて魚を誘うが、手ごたえはない。
「それもそうよね…。んー、このままじゃ夕食が別メニューになっちゃう」
「すっげー悔しい…」
がくりと肩を落とすアリーナとノイエ。
「あと数日、このまま陸伝いに船旅が続きますし、明日はきっと大漁ですよ。元気を出して」
「うん、ありがと!」
「優しいなぁお前!」
釣竿から手を離せないため、二人は空いている片方の手だけでクリフトに抱きついた。
いつものことなのでクリフトに動揺はない。
「あれ?クリフトの服、トマトの香りがする」
「あ、ずっと傍でトマトスープを煮込んでましたから」
「おーあれうまいんだよなぁ。やっぱあれには魚だろ魚!しかも白身系」
「うん!やっぱりもうちょっと頑張ろう!クリフト、あと少しだけ待っててもらってもいい?」
「はい、大丈夫ですよ」
夕食に間に合うぎりぎりまで待とう。そう思い、自らもロープの箱の上に腰掛けようとしたクリフトだったが、アリーナが持つ釣竿の小さな異変に気がついて声を上げた。
「姫様!引いてます!」
「えっ!?」
アリーナが慌てて竿の先を確認すると、わずかだが確かに上下している。
次の瞬間、アリーナの手に力強い手ごたえが伝わった。釣竿が大きく曲がる。
「うわっ!手がぶるぶるする!!」
「おぉ釣れてる釣れてる! アリーナ落ち着け!焦んなよっ」
「ああぁでも、なにこれ持ってかれちゃうよ!」
コツが分からないアリーナは力任せに竿を引くが、獲物はそう簡単に上がってきてはくれない。
竿先が強く引かれてよろけた。とっさにクリフトが後ろから支える。
「大丈夫ですか!?」
「ありがと!うん平気!」
「よぉし、じゃあ俺がそっちに行って引くタイミングを教えるから……ぅえ!?」
突然、ノイエの釣竿も同じように弧を描いた。
「きたっ俺も釣れたぁ!! わりぃ、やっぱ手が離せないから自分達でなんとかしてくれ!」
「えぇっ」「そんな」
「魚が疲れてるときに引けばいけるから!」
「疲れてるかどうかなんて、魚に聞いてみないと分から…」
「姫様」
すぐ後ろから聞こえたクリフトの声に、アリーナの言葉が止まる。
「向こうから引かれなくなったら、引っ張りましょう」
「…そうね!」
分かりやすい説明に大いに納得して、アリーナは大きく頷いた。
やがて手に伝わる振動が徐々に弱くなってくる。
ずっと張り詰めていた糸が緩み、釣竿が真っ直ぐに戻ったその瞬間。
「えいっ!!」
アリーナはすばやく竿を引いた。激しい水しぶきと共に海面上に姿を現したのは、銀色に輝く体。
大きい。勢い余ってアリーナは甲板に倒れた。後ろにいたクリフトが自動的に下敷きになる。
「うわっ!」「ごめん!」
その二人のすぐ横に、まだ糸が付いたままの魚がぼとりと落ちる。振り返ったノイエが興奮して叫んだ。
「スズキじゃん!しかも超大物!! よし、俺もそろそろ!」
ぐいっ、とノイエが自分の釣竿を引く。
しかし、こちらの針の先についていたのは、白くて青くてふよふよした何か。即座に正体に気がついたノイエは、思わず竿から手を離した。
獲物は惰性に従って宙を舞う。行き着く先はちょうど、アリーナの上。
「きゃああああ!」「うわあああっ!!」
アリーナとクリフトの目の中で火花が散った。
熱い。痺れる。身体が動かせない。
「ああっわりぃ! えぇいこんにゃろっ!」
ノイエは近くに置いてあったバケツの持ち手を握ると、勢いよくすくい上げるようにしてアリーナの上のものに当てた。
ぱこん!という軽い音を残してそれは飛んでいき、船内への扉のすぐ横に強く当たって気絶する。
青白い半透明の体、そこから伸びる数多くの青い触手。
「しびれくらげ、かよ…」
「と、とんでもないのを釣ってくれたわね……」
「わり、俺もびっくりした…。しかもまさかお前らのとこに飛んでくなんて」
「だ…大丈夫です。私達は痺れただけですし、しびれくらげも毒を抜けばいい食材になりますから」
「おぅ、せっかくだからこれも食おうぜ。じゃあ俺、ミネア呼んでくるな。早くキアリクかけてもらわないと!」
足音が遠ざかっていく。二人は痺れたまま、空を仰いで重なった状態で甲板に取り残された。
横でスズキがぴちぴち、ぴちぴちと跳ね続けている。カモメの声の数が多くなったのは、獲物を横取りしようと狙っているのか。
青い空と白い雲が妙にまぶしい。そしてそよ風は申し訳ないほどに優しい。
「…ねぇ」
アリーナが自分の真下にいるクリフトに呼びかける。
「はい」
「今日の夕食のメニューは?」
「…焼きたてのパンと、サラダに、トマトスープ。それから」
眉を下げながら、クリフトは言った。
「『スズキのポワレ しびれくらげのマリネを添えて』」
ノイエがミネアを連れて戻ってきた時、アリーナとクリフトは痺れたままの状態で大笑いしていて、ミネアをひどく心配させたという。
小さな後書き
クリアリアンソロ用に書き下ろした話です。
長い船旅の途中に起きた珍事を切り取ってみました。
最終的には二人で折り重なっているわけで,そう考えると実は結構甘い話なのかも。
明光星さんに挿絵を描いていただきました。明さんの絵に変換されると
うちのクリフトがすごい美形に! アリーナの髪もふわんふわんです。
ノイエは緊迫した場面でにやりと笑うことがあるんですが,
表情を指定した訳じゃないのにちゃんとそんな顔に描いてもらえてうれしかったです。
そうそう,しびれくらげは案外美味しいんじゃないかと!
中華料理のクラゲみたいにコリコリしてそうです。
でも毒抜きが中途半端だと,ちょっとピリっとしそうな気も。
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