そんな,午後

クリフトはふうっと息を吐くと,読んでいた本を閉じ,枕元のランプを消した。
うつ伏せから仰向けへと身体の向きを変える。視線が泳ぐ。
窓のすぐそばまで枝を伸ばしている大きな樫の木を見て,思わず口元が緩んだ。


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ある日の午後のこと。


祭壇から降り注ぐ光がまぶしい。サイトハイム城内にある,小さいが天井の高い礼拝堂はこの時間,光であふれていた。
一人の少年が,ゆっくりと祭壇に向かって歩いている。すらりと背が高い。丈の長い神官帽も相まって,余計に長身に見える。

祭壇のすぐそばまで来ると,神官帽を取り,そっと跪いた。青色の髪が光を吸って明るく輝く。
ぽかぽか陽気の昼下がり。外に出れば間違いなく最高の心地よさを味わえるのだろうが,食後の祈りのほうが優先だ。
少年は小さな声で,いつものように感謝の言葉を唇にのせた。背丈のわりに随分と高い声が礼拝堂に響く。


最後の声の残響が完全に消えるのを待って,少年はそっと目を開いた。あまりのまぶしさに完全に瞼をろくに開けれないまま,出口のほうへ向き直る。そのまま,固まってしまった。

「食後の祈り?」

聞いてきたのは,いつの間にか扉の脇に立っていた,瞳をきらきらさせた少女。

「ええ,そうです。いらしていたのなら,一緒にお祈りしたかったのに」

少年は神官帽をかぶりながらそう答え,ふんわりと笑った。その表情はまだまだあどけない。

「だって,クリフトの声聞いていたかったんだもの。お祈りしてるときの声,すんごくきれいなんだよー。
前を通りかかったときにちょうど聞こえてきたから,つい立ち止まっちゃった」
「・・・ありがとうございます,姫様」

お礼を言う少年――司祭長補佐の肩書きを持つ,神官クリフトの頬がほんのり染まった。
照れているだけなのか,はたまた別の理由からか。そんなことには気付きもせず,少女――サントハイム王女アリーナは,あっと声を上げて満面の笑みを浮かべた。

「今日はクリフトの神学の授業の日よね!?」
「はい。でもその前に姫様,グロリア様のダンスレッスン,ちゃんと受けてきてくださいね」
「ええーっどうして知ってるのよ」
「姫様の今週のご予定を,午前中に確認したばかりですから」
「そんなぁ,せっかくクリフトの授業繰り上げてもらって,ダンスさぼろうと思ったのに」

ぶうううううっと頬を膨らますその姿が,また可愛くて。礼拝堂の光よりもまぶしく見え,クリフトは目を細めた。

「またあのクッキー,用意しておきますから,ね?」

膨れた頬が一瞬で元に戻る。

「ほんと?うれしい!じゃあ,がんばって早く終わらせるね」
「ええ,お待ちしています」
「約束よ,お茶とセットでね!」

そういい残し,軽やかな足取りで,かつものすごいスピードでアリーナは去っていった。






・・・ああ,また厨房借りないと。このあいだのおいしいバター,まだ残ってるかな。
しばらくその場でほうけていたクリフトは,耳に飛び込んできた声にはっと我にかえった。

「なんという締まりのない表情をしておるんじゃ」
「ブライ様・・・!」

先ほどまでアリーナがいた場所に,今度は白髭のかくしゃくとした老人が立っていた。
宮廷魔術師にしてアリーナ姫の教育係,ブライ老である。

「申し訳ございません・・・」
「城の中でなければ,仲の良い幼馴染同士にみえるんじゃろうなあクリフトよ」
「えっ・・・ええっ??」

さきほど,自分が赤くなってしまったのも,姫様の笑顔に見惚れていたのも,すべて見られていたというのか。
老師にはとうの昔にこの想いはばれているのだが,やはり気恥ずかしさは隠せない。
あああ〜と頭を抱え込むクリフトを,かっかっかと笑い飛ばすブライ。そしてふと思い出したように言った。

「そういえば今日は,ルラーフ卿と約束はしておらんのか?午前中に回廊ですれ違ったんじゃが」
クリフトは抱え込んでいた頭をがばっと上げた。そうだった,今日は・・・

「ブライ様失礼します!」

一礼してから,慌てて執務室のある西側の棟へ向かって走り出した。きっちりベルトを止めていなかった神官帽がずり落ちる。さらに慌てて帽子を拾い直し,こんどは被らずに腕に抱えたままで再び走り出した。

「・・・・・・なにもそんなに急がんでも,卿は夕方までいらっしゃるじゃろうに」

残されたブライは,しょうがないのうとため息交じりにつぶやく。しかしその表情はとても優しいものだった。







息を切らしながら,扉を3回,叩く。

「はい」

中から,耳慣れた声で返事が返ってきた。

「クリフト,です」
「どうぞ,お入り」

中に入り,きっちりとドアを閉めてから顔を上げた。執務机に向かっていた初老の男と目が合う。

「お久し,ぶりです,父上」
「どうしたクリフト。少し息が上がっているようだが」
「申し訳,ありません,遅れてしまったので,走ってきたんです」

素直に白状すると,自分と同じ青い髪と青い目の父,ウェイマー・ラングレント・ルラーフは,気にするなと笑った。
クリフトはごめんなさいともう一度頭を下げると,すすめられたソファに腰掛ける。

「ちょうど書類の束のサインが終わったところだ。私も一休みしよう」

そう言ってウェイマーも,向かいのソファに身体を預けた。ぐぐっと背伸びをするその姿に,クリフトは思わず笑みを零す。自分と一緒の時にくつろいでくれるのは,とてもうれしい。

サントハイムの城下町,サランの領主である父は,定期的に王城を訪れる。そのため,こちらにも専用の執務室を王より賜っていた。
父が来るたびにクリフトは顔を出すようにしている。それが父のいい息抜きになっていると自覚しているからだ。
そして,自分にとっても。
母のこと,兄のこと,姉のこと。サランの近況や,統治に関する父の考えが聞けるのを,クリフトは楽しみにしていた。
最近増えた,新しい話題をひとつ除いて。




たわいもない話をすること数刻。ウェイマーの表情が突然,真剣なものに変わった。

「ところで・・・クリフト」

うわっ,きた。
またあの話だきっと。クリフト,思わず身構える。

「お前ももう,早いもので16になった。16といえば,サントハイムではもう成人」

ほぉら,やっぱり。

「―――そろそろ3つ目の名前をもらう気は,ないのか?」

成人の儀式の際に,貴族は新たな名前を一つ,もらう。
すなわち,貴族として再び自分の傍に戻ってくる気はないかとの,父の問いかけなのだ。

「・・・申し訳ないのですが」

そのたびに,クリフトはやんわりとことわる。
自分の居場所は教会であり,礼拝堂であり,この城であると。
もちろん,息子の安全を考えて神官への道を示してくれた父上には感謝しているし,戻ってきてほしいとの気持ちもうれしい。
だが,自分はまだまだ神官としてもひよっこ。こんな中途半端なまま,執政側の立場に立つことはできない,と。

「もう少しだけ,待っていただけますか?せめて,こちらの礼拝堂を任せられるような立場になるまで。
それまで・・・私はクリフト・ルラーフのままでいたいんです。わがままを言って・・・ごめんなさい父上」
「・・・・・・。そうだな。わかった」

最終的にはいつも,息子の真摯な瞳にウェイマーは負けてしまうのだった。







「マギーおばさん!」

調理場で働くマギーは,ジャガイモをむく手をそのままに,顔を上げた。

「どうしたんだいクリフトちゃん,そんなに息を切らして」

今日はこればっかりだ。クリフトは思わず天を仰いでから,申し訳なさそうに,言う。

「厨房・・・貸して,いただけますか?」
「どうぞどうぞ,そっち側空いてるから,好きなように使いなよ。またクッキーでも焼くのかい?」
「ありがとうございます!ええ,そうなんです。先日使わせていただいたバター,まだ残ってますか?」
「ああ,あのバターねぇ・・・残念ながらさっきこれにつかっちゃったのよぅ」

指差す先には,大量の,キノコのバターソテー。一足遅かったか。クリフトは落胆した。

「でもね」

ふくよかな身体をゆらしながら,マギーは食料庫の扉を開けた。

「ついさっき新しいのが届いたばかりよ。運が良かったねぇクリフトちゃん」

そこには瓶いっぱいのバターが色もつやつやと,さあ使えとばかりに出番を待っていた。







クリフトはまた走った。今度は自室に向かって。走りながらつい,考えてしまう。
――どうして父上が来るのを忘れていたんだろう。今日は神学の授業があるから舞い上がっていたんだろうか?
それとも昨日,読書に夢中でつい夜更かししてしまったから?ああ,情けない――

部屋の前に,まだアリーナの姿はなかった。
間に合った。思わずほっと胸をなでおろす。
扉を開けた,その瞬間。

「おそーーーい」
「姫様!?」

部屋の中にもアリーナの姿は,ない。

「せっかくまじめに練習してきたのに」声がするのは・・・・・・窓の外からだった。
すぐそばに生えている樫の木の一番太い枝に腰掛けているのは,まぎれもなくアリーナ。

「!なんで,また,そんな場所に・・・」

びっくりするやら,息は切れるやら。クリフトは思わずその場にへたたりこんでしまう。

「だって」アリーナはぎゅぎゅっと,一生懸命眉を寄せる。「ノックしても返事がないし,まさかまた寝不足で倒れてるんじゃないか心配だったのよっ。でもクリフト,前に勝手に部屋に入ったら怒ったじゃない?だから,窓からのぞいてみようと思って」

上の階から幹をつたってきたのよ,と得意げに話す。
そして体重を感じさせない動きで,ひらりと部屋の中に入ってみせた。

「もうあんなに,睡眠時間を,削る,ことは,しませんから」
「信用できないわ。現に今もへばってるし」

これにはクリフトも,苦笑いするしかない。あまつさえ,はい,と右手を差し出されてしまった。
もう開き直って,自分も手を伸ばす。

「よいしょっと」

小柄な姫に引っ張り上げられる,長身の神官。そのままぽすっとベッドに投げられた。

「おわっ」
「呼吸が整うまで休んでね」
「・・・・・・はい」







「―――です。その時に,聖トマスが言ったとされる言葉が,ゴットサイドにある石碑に――」

授業は淡々と,実に快調に進む。どうやらクッキーの威力は絶大なようだ。

・・・これなら毎週作ってもいいかも。バター,定期的に入るといいな。

つい余計なことを考えてしまい,クリフトはいけないいけない,と軽く首を振った。
実際のところアリーナは,右から左に聞き流しているのだが,また別の考え事をしているクリフトにはそこまで気がつく余裕がない。

ふた月前。16歳になったその日,今後アリーナの神学の授業を担当するようにとの指示を受けた。
うれしくてうれしくて。もう笑顔のまま顔が固まってしまいそうで。一回目の授業で何を教えたか,正直よく覚えていない。
それから週に一度,こうしてクリフトの部屋で神学の授業を行っている。
あとひと月ほどでアリーナも16になる。そうしたらもう,この部屋にくることは許されないだろう。
それがわかっているからこそ,今のこの時間を大切に,記憶に深く刻み込んでおきたい。
教科書をめくる手がついゆっくりになる自分に,クリフトは気がついていた。




今日の授業はこの神学ですべて終わり。夕食まで,アリーナは自由な時間をすごせる。
普段は身体を動かす時間に充てているのだが,クリフトの授業があった日だけは,そのまま残ってお茶をご馳走になることにしていた。

「ん〜〜。やっぱりこのクッキー最高」
「ありがとうございます。お茶,おかわり入れましょうか?」
「うん!」

アリーナはマーブルクッキーをほおばりながら,うれしそうに頷いた。
こぽこぽこぽ。
お湯をティーポットに注いだ途端,良い香りがふわりとたちのぼる。数種のハーブをブレンドしたお茶は,アリーナのお気に入りだった。
心も身体もほぐれていく。そばには,幼い頃からほぼ毎日顔をつき合わせてきた少年の,優しい表情があった。

「最近ね」

ぽそっと。いつも元気いっぱいなアリーナにはめずらしく,ささやくような声で話し出した。

「ダンス,礼儀作法。あとフレノール刺繍とか。そんな授業ばかり,異常に増えてきているの」

目を伏せて,テーブルに頬杖をつく。
クリフトはアリーナのカップに静かにお茶を入れた。
そして,相づちを打つわけでもなく,先を促すわけでもなく。次の言葉をそっと待った。

「・・・・・・やっぱり,もうすぐ16歳になるから,なのかな」
「そうですね」

返事をしながらも,クリフトはアリーナと目が合わせられずにいた。

「誕生日のお祝い,成人の儀式,各国への挨拶。その後もいろいろと公式行事が控えています。
今後,ダンスや礼儀作法が生かされるような場が増えてくることは,間違いないでしょう」
「どうして?」
「え?」
「ただ16になるだけなのに,どうしてなのかなって。
16歳は大人,じゃあその前の日までは子供なの?
急に変わらないといけないの?”大人の女性”になんて,すぐになれない。ゆっくりじゃ,だめなの・・・?」

赤い瞳に,どうしようもないほどの不安の色が見えた。

――ああ,おなじだ。


クリフトはお茶を一口飲んだ。ひろがる香草の香り。
カップを置き,今度は真正面から,目をしっかりと見て言った。

「ゆっくりで,いいと思います」

顔を上げたアリーナに,少し照れくさそうに笑いかける。

「ここ1,2年で私は,随分身長が伸びました」

突然,思っても見なかったことを言われてアリーナはとまどった。

「うん。確かに前はわたしとそんなに変わらなかったのに,気がついたら見上げなきゃいけなくなっちゃった」
「なのに,私の声はまだそんなに低くなってないでしょう?体格も,しっかりしていない。
背だけが先に伸びて,筋肉が追いついてきていない感じです」
「そうだね,クリフトひょろひょろ〜」

少し元気が出てきたらしい。クリフトをからかうアリーナの声は,いつも通りに戻っていた。

「・・・残念ながらそのとおりです。今が一番中途半端なときですね。子供と大人の間の時期に,私はいるのだと思います。
でも少しずつ,確実に,”大人の男性”に近づいている。外見だけですが」
「外見?」

首をかしげるアリーナ。

「お恥ずかしながら,まだまだ内面は子供だなと,自分でも思います。もっと神官として,人間として,成長したい。
でも正直,大人になるのが・・・怖くなるときがあります」
「えっ?」
「姫様といっしょです。私も16歳になったとたん,周りからは成人扱いされることが多くなりました。
まだ私は,成人の儀式をうけてないのに。周囲の反応と,自分の体格だけが勝手に変わっていくんです。
なんだか,自分の中身だけ置いてけぼりをくらったような気分になります」

クリフトは,そっと目を伏せた。口元にはほんの少しの,笑み。

「成長したい,でももう少し,子供でいたい。急に大人になるのは,怖い。
・・・・・・今はそんな,わがままな,気持ちです」

じっとクリフトの話を聞いていたアリーナの表情が,ゆっくりと笑顔になっていく。

「そっか・・・クリフトも,同じなのね。わたしだけじゃないのね?みんな・・・不安なんだよね!」

クリフトは頷いた。

「成人の儀式は,ひとつのきっかけにすぎないと思います。姫様は,姫様自身で,大人になっていくのですから」
「うん!」
「あ。でもだからといって,ダンスや礼儀作法の授業,さぼっていいって訳ではないですからね」
「もーう,わかってるわよぅ。でももう,無理に自分を抑えたりしないことに決めたもん」

――また脹れっ面だ。やっぱり可愛いとしか思えない自分は,だいぶやられているのかもしれない――

「姫様をお守りできるように,私もちゃんと鍛えないといけませんね。運動しないと筋肉はつきませんし」
「じゃあ,わたしもクリフトを守ってあげるね!」
「それじゃあ意味がないです・・・」

がっくりしているクリフトを横に,アリーナは楽しげに想像を膨らませる。

「わたしももう少し身長がほしいな。まだ伸びる可能性もあるわよね?ミルクやチーズがいいんだっけ?
クリフトはこれ以上大きくなっちゃ駄目よ,もっと差がひらいちゃう。
でもクリフトの声,どのくらいまで低くなるのかな?わたし今の声が大好きだから,ちょっともったいない気がするわ」

一気に顔が熱くなった。
高すぎる声は,彼の小さなコンプレックス。だがそれも,大切な少女に喜んでもらえるのなら,まあいいかな,と思えてくる。

「幼い頃からずっと高い声で賛美歌を歌ってきたので,もしかするともうこれ以上変わらないのかもしれませんが」
「そうだといいね!」

はい,と答えてしまう自分はやっぱり,まだまだ子供なんだろうな。
ちょっとだけ眉尻を下げて。クリフトは笑った。


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布団をかぶりなおして,目を閉じた。
今日一日を振り返る。なんと慌しい午後だったのだろう。
でも。
神よ,もし本当にいらっしゃるのなら。

どうか今しばらく。この刻を―――


午後のお茶の時間。クリフトの助言を聞いて,アリーナが城を抜け出す決意を固めたのを,彼は知るよしもない。
樫の枝は,さわさわと,静かにそよいでいた。





小さな後書き

クリフトもアリーナもこの頃はまだまだ幼いです。
「大人になる」ということを不安がるのは,大人に近づいているしるしなのかも知れません。

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