コーヒーリキュールをたらした熱いミルクを飲んで,ノイエはふーっと一息ついた。
子供でも飲めるような弱いカクテルだが,それでも胃の辺りが熱くなる。
そこから手足の先まで一気に血が行き渡った気がした。


アリーナとクリフトから聞かされたのは,突拍子もない話だった。

「竜の神様,か・・・」
「うん。すぐには信じられないと思うけど」


立札に書かれていたのは,アリーナの父からの時を超えた伝言だった。丁寧に王の印まで焼きつけられていた。
雲の上には竜の神様が住んでいる。
会いに行く方法は,スタンシアラの人たちが知っている。
そんな内容が,幼く拙い文面で記されていたというのだ。


「お父様には,不思議な力があった。ときどき夢の中で,未来のことを知ってしまうの」
「予知夢,ってやつ?」
「うん」
「それが原因で,声を失われてしまったこともありました」
「へえぇ・・・」

未来を知る力。
自分がもしそんな力を手に入れてしまったら,かえって恐ろしくて先に進めない気がする。

「アリーナの父さん,強いな。ちゃんと娘を,守ってるんだな」
「・・・うん」

またアリーナが笑った。クリフトも目を細めた。
ノイエは頬杖をついて,空になったグラスを無意識に振った。「同じものでよろしいですか?」と聞いてきたマスターに,にやっと笑って答える。

「スタンシアラ,かぁ・・・。どんなとこなんだろ」
「サントハイムの北にある島国です。古くから我が国とは国交があります」
「きっと王様にも,すぐに会うことができると思う。
 竜の神様について詳しい人を紹介してくださいって,お願いできると思う」
「そっか。・・・じゃあ,次の行き先は決まり,だな。
 神様ならなんでも知ってるだろ。聞きたいこと,全部聞いてやろうぜ!」
「ノイエありがと!」
「ありがとうございます!」

「どんどん感謝してくれ〜」とふんぞり返ったら,アリーナから冗談まじりの軽いパンチが飛んできて,ノイエはそれをまともにくらう羽目になった。





三人は話をした。
これからのこと。これまでのこと。
ミントスまでの,お互いの旅の話。あまり深くは語らず,さらさらと簡単に。
昨日の夜のことについてノイエが探りを入れると,二人はそろって真っ赤な顔になった。
それをひやかしながらノイエは,二人を探しに街に出て本当によかったと思った。
こうして三人だけで長く話をする機会は,意外と少ない。

この酒場は,時々クリフトの父や兄がお忍びでやってくる場所らしい。
クリフト自身も何度か,実家に帰ったときに父に連れてこられた。
マスターは身分を気にせず,通常の客と同じように接してくれる。父や兄にはそれがいい息抜きになっていたらしい。



「スタンシアラはね」

マスターがサービスで出してくれたサラダをつつきながら,アリーナは呟いた。

「小さな島がいくつもいくつも集まってできている国なんだって。
 道の代わりに運河があって,馬車の代わりにゴンドラや筏を使う,水の都なの」
「随分詳しいんだな。行ったことあるのか?」
「ううん。昔,スタンシアラから来た使者に聞いたのよ。あれっていくつくらいの時だったかな」
「確か,9つか10だったと思います」

クリフトはすぐに答えた。

「そう,そのくらい。・・・使者の中には,スタンシアラの伝統音楽を披露する楽師がいたわ。
 まだ子供だったわたしに,手風琴を演奏しながら,いろんな歌を聞かせてくれた」
「その中の一曲を覚えようと,こっそり教わりにいきましたね」
「そうそう。一人だと無理だけど,二人なら歌えるようになったのよね」

メロディがややっこしいの。と,アリーナは少し膨れた。

「スタンシアラの歌って,旋律に歌詞を合わせるんじゃなくて,歌詞のほうに旋律を合わせるの。
 一番と三番はわたしも歌えるんだけど,難しい二番はいつもクリフトにお任せ」
「クリフト・・・歌,うまいのか?」
「あれ?ノイエ聞いたことなかったっけ」
「おう」
「じゃあクリフト,一緒に歌おっか」
「えっ?」


突然の成り行きにクリフトは戸惑った。


「今,ここでですか?」
「うん!ノイエ驚かせたいの!」
「おーせっかくだ!聞かせてくれ,これから行くスタンシアラの歌」
「まっかせなさーい。クリフトの歌声聞いたらびっくりするんだから」

アリーナは自信満々だ。クリフトはというと,ちょっと困った顔をしつつもさほど嫌そうではない。
ノイエは考えた。
クリフトは神官だ,子供の頃から賛美歌を歌う機会も多かっただろう。
確かに歌はそれなりにうまいはずだ。地声も高い。どんな歌声かはだいたい予想がつく。
再びグラスを空にすると,ノイエは不敵に笑った。

「そう簡単には驚かないぞ〜?」
「ふふふ,言ってなさーい。・・・クリフト,高さはどうしよう?子供の頃と一緒なのはさすがに無理よね」
「そうですね,では・・・・・・二音半,下げていただけますか?それでなんとかなると思います」
「んと・・・」

アリーナは歌いだしの音を出してみた。

「合ってる?」
「はい」
「アリーナも結構音感いいじゃん」
「ありがと。・・・じゃあ,歌うね。『水の乙女に愛されし都』。・・・ちょっと大げさな曲名よね」
「わっはっは!でも曲名なんてみんなそんなもんかもな」
「ねー」


カウンターに座ったまま,アリーナは大きく息を吸うと,可愛らしい声で歌いだした。



     わたしが眠りから目覚めるとき
     貴女は靄のなかで輝いている
     絶え間なく流れゆく 留まる事を知らぬ貴女
     朝の暁光に溶け込む貴女

     雄鶏の鳴き声と共に わたしは歌を捧げよう
     美しき貴女 夜明けを告げし水の乙女よ
     今日の始まりを彩る 水面の煌きよ



広い音域を行き来する旋律は,少しの物悲しさと甘さを含んでいた。
そして独特の大きく揺れる装飾音を持つ。
確かに美しいメロディだった。ノイエ自身も覚えてみたいと思うほどの。

アリーナもなかなか歌が上手い。ノイエは口笛を吹く真似だけをした。
それに小さく手を上げて応えてから,アリーナは目でクリフトを促した。
クリフトは微笑むと,そのまま歌を継いだ。

空のグラスが,ことりと倒れた。



     わたしが舵を手にするとき
     貴女は幼い子供になる
     か弱き小船を翻弄する 自由気ままに踊る貴女
     昼の陽光に笑う貴女

     正午の鐘と共に わたしは歌を捧げよう
     美しき貴女 活力を与えし水の乙女よ
     人の営みを映す 水面の煌きよ




口をぽかんと開けたまま,ノイエは聴き入った。
予想よりも遥かにしなやかなその歌声は,高い音域でも透明感と柔らかさを失わない。
これ以上ないほど複雑な装飾音も,ごく自然に,易々とこなす。

そしてアリーナも再び歌に加わる。



     わたしが家へと帰るとき
     貴女は穏やかに微笑んでいる
     疲れ果てたわたしを 母のように労わる貴女
     夕の斜陽に瞳を伏せる貴女

     夜の風音と共に わたしは歌を捧げよう
     美しき貴女 眠りに誘いし水の乙女よ
     今日の終わりを見守る 水面の煌きよ


     貴女に愛されし この水の都
     明日もまた 貴女と共に時は流れる




全三度のハーモニーが,すっと空気に溶け込んだ。


美しい水の乙女が,ノイエの脳裏に笑顔を残して消えていった。
心が震える。まだ見ぬスタンシアラへの希望が膨らむ。その国の歌を聴いただけなのに。
ノイエはただ呆然としていた。してやったりなアリーナの表情が少し悔しいが,これは素直に認めるしかない。

「・・・・・・すっげー・・・」
「でしょ?」
「すごい。すごかった。びっくりした」
「いえ,それほどでも・・・」
「いやほんとすごい。なんかさっきからすごいしか言ってないけどマジすごい!」

突然,クリフトの両手を取ってぶんぶん振る。

「クリフト,お前の歌ってすっげー力持ってるな!!」
「ち,力,ですか?」
「おう!ある意味魔法よりも強力かも!」
「どうノイエ?驚いたでしょ」
「あぁもう降参。参りましたー」
「じゃあここはノイエのおごりね」
「はっ?ちょっとまて!?」
「今,降参って言ったじゃない」
「そんな賭けをした覚えはねぇ!」


倒れていたノイエのグラスを起こしたクリフトは,マスターと顔を見合わせると声を上げて笑った。







夜更けのサランを,三人は歩く。
アリーナの手の中には,余ってしまったからとマスターがくれたスープの残り。

「これ,マーニャとミネアに差し入れするの。晩ご飯,ほとんど食べてなかったから」
「あぁ,それいいな」
「きっとまだ,お二人とも起きてらっしゃいますよ」
「うん!」

アリーナから差し出されるスープは,二人の身体を温めるだろう。心も,少しは温められるかもしれない。


水の都,スタンシアラ。アリーナの父によってもたらされた小さな希望は,歌によって大きく膨らんだ。
必ず,前へ進む手がかりが掴める。それは確信に近いほどの予感。

「なぁ,クリフト」
「はい」
「お前さっきの曲,楽譜におこせる?」
「え?ええ・・・」


荷物の一番底にしまったままの,小さな横笛。
久しぶりに吹いてみようと思った。今ならきっと,吹ける。
今度はアリーナを驚かせてやろうじゃないか。スタンシアラについたら絶対ご馳走をおごらせてやるからな。


「じゃあ,頼んでもいい?どうせ船の上だと暇だろ?」
「いいですよ。そうしたら,明日にでも」
「さんきゅ!」
「ひょっとしてノイエも歌いたくなったの?」
「内緒」
「なぁによーぅ!」




三人とも,帰り道は寒く感じなかった。
傍にいる人も。すれ違っただけの人も。今は会えない人も。皆いつだって,温もりをくれる。




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小さな後書き

8人だけではありません。
アリーナの父も,酒場のマスターも,街の人々も,皆。

異国のうたは希望の象徴。彼らは明日早速,出航の準備に取り掛かるのでしょう。

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