ミントス2032

呼吸が浅くなる。鼓動が弱くなる。体温が下がる。
劇的な変化はない。けれども回復することもなく,少しずつ,少しずつ,悪化の一途をたどる。
毒消し草やキアリーで一時的には抑えられるが,その場しのぎにしかならない。

これと同じ症状を,医学書で読んだ覚えがある。
夜の海。コナンベリーとミントスを結ぶ船の一室で,医学書の解毒の項を順に探し…,そして見つけた。
間違いない。やはりこれは,「黄金の眠り」だ。


最後に待つのは眠るような死。
一瞬,自分の医学知識を呪った。知りたくなかった。







あれは,コナンベリーまであと半刻ほどの草原でのこと。
襲い掛かってきた魔物たちを,いつもと同じように姫様,ブライ様と共に倒していた。
剣で払って,薙いで,突いて。目の前の骸骨戦士がばらばらになって崩れ落ちるのを確認してから,姫様とブライ様の加勢しようと一歩踏み出した,その時だった。

右耳の後ろ,神官服の襟の上あたりに走った,すさまじい痛み。


「うああぁっ!!!」


声を上げずにはいられなかった。なんとか剣だけは落とさずにこらえたが,まともに立っていられない。その場にうずくまった。

「クリフト!?」
「おおっなんじゃこれは!…蜂か!?」
「ええっ蜂? 蜂なの!!?」


そうか,蜂か。蜂に刺されたんだ。多くの羽音に囲まれていることに,お二人の声を聞いてようやく気がついた。
しかし返事はできなかった。痛みはすぐに熱さに変わる。
鼓動は早鐘のように鳴る。焼かれていく知覚の中で必死に考えた。どうすればいい? どうすれば。


「少々寒いが我慢せいクリフト!!」

ブライ様が呪文を唱える。周囲の温度が一気に下がるのが辛うじて分かった。
ぼとぼとと,目の前に次々落ちてくる塊。
きっとこれ以上は襲われない。だから逃げなくてもいい。だから,だからまずは…!!



キアリーを唱え終えるまで意識が保てたのは,駆け寄ってきた姫様が今にも泣きそうに見えたせいかもしれない。








「…ほぉ。この草むらの,土の中に巣があったんじゃのう。おぬしも運が悪いわい」
「ほんっとうに心配したんだからね!!」
「申し訳ありません…。ありがとうございます,もう大丈夫です」

キアリーをかけると痛みと熱さは嘘のように引いた。魔物の毒でさえ散らせる呪文だ,蜂の毒くらいなら容易く消えてしまう。
あのときブライ様がとっさにヒャドを唱えてくださって助かった。蜂は寒さに弱い。


「でもこれ,変わった色の蜂よね」
「えぇ…」

茶色,もしくは黄色と黒の縞模様。
蜂といえばそのどちらかのイメージが強いのだが,この蜂たちはなんと,金色をしていた。

「珍しいのう。黄金のように輝いておるわい。しかも」

ブライ様がその中の1匹を杖の先で示される。

「このひとつだけ,異様に大きい。クリフトおぬし,これにやられたのではないか」
「はい,おそらくは」
「女王蜂?」

…なのだろうか。女王蜂は巣から出ないはずだけれども。さらに普通の蜂より毒は弱いと本で読んだ記憶があるのだけれども。

「ちょうど巣のお引越し中だったのかな」
「普通の蜂だったら,もう少し痛みも軽かったじゃろうに。本当に運が悪かったのぅ,ほっほ」


そう,この時点ではまだ,笑い話だったのだ。




コナンベリーで宿を取り,翌朝出航するという定期船の話を聞いて,乗ることに決めたまでは良かった。
眠りにつくまでは健康そのもので,蜂に刺されたことなど忘れてしまうほどだった。

朝,目を覚ましたときに感じた僅かな身体の異常も,少し疲れが残っているかなという程度のものだった。
だが,何か嫌な予感がした。医学の知識がどうこうという以前に,人としての本能が警告を発する。
それでも私は,不調を隠してミントス行きの船に乗り込んだ。これが最後の定期船になるかも知れないと前日に聞かされていたから。








医学書を閉じ,ランプを消した。
上着を手に取る。同室のブライ様がよく寝ていらっしゃるのを確認して,物音を立てないように注意を払いながら船室から出る。
甲板に上がって上着を羽織った。恐ろしいほど暗い空と海。その境目は星があるかないかで辛うじて分かるほどだった。



…コナンベリー周辺に生息する希少種,黄金蜂。
その女王蜂の毒は「黄金の眠り」と呼ばれ,暗殺にも用いられる毒。

頭では理解した。けれど,感情がついてこない。
朝よりも体調は悪いが,今はまだこうして動ける。
けれど,このままいくと自分は確実に死ぬ。
そんなことは認めない。納得できるはずがない。



「考えろ…」


意識しないままにつぶやいていた。

死ぬわけにはいかない。死んでしまったらあの方を守れない。
こんなところで自分が死ぬはずがない。守りたい。守りたいんだ!

だから,考えろ。医学の知識を呪うくらいなら,その知識を限界まで生かせ。
回復させる方法はあるはずだ。思い出せ。
そしてミントスに着いたらすぐに…


「ミントス……?」



そうだ。あの大陸には。



「ソレッタの…」



パデキアの根。どんな病も治すという伝説じみた薬だが,それは確かに存在する。
産地のソレッタに近いミントスなら,手に入るかもしれない。



夕方,姫様と甲板に上がったときにも思った。早くミントスへ,と。
その気持ちがさらに膨れ上がり,小さな希望に,そして大きな決意に変わる。

両手を身体の前に構えてキアリーの呪文を唱えた。淡く光る手のひらを重ねて,自分の胸に当てる。
光が吸い込まれるようにして消えた。僅かだが楽になる。



「…死ぬものか」


死なない。死ねない。



海は変わらずに,静かで,暗い。
黄昏時よりも弱まった風。再び強くなれと願った,その途端の出来事だった。


髪が激しくかき乱された。
ロープが張る。マストが軋む。帆が膨らむ。

まるで後ろから何かに押されたかのように,船の速度が一気に上がる。



「っはは…」



笑いがこみ上げてきた。
両腕で自分の身体を強く抱きしめる。指が二の腕に食い込んだ。

大丈夫。きっと大丈夫だ。
手のひらは温かい。痛みだってちゃんと感じる。



…ミントスまで,もってみせる。




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小さな後書き

当然,この場にアリーナはいません。
でも,このクリフトの表情は,アリーナにも見て欲しかった。
書きながら何故かそう感じてしまいました。

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