クリフトはいつも,わたしより早く起きる。
子供の頃,本を読んでもらいながら揃ってうたた寝してしまった時も。旅の空の下でも。
たまにはクリフトの寝顔が見たいなって,旅に出たばかりの頃にそう言った覚えがある。






大丈夫,きっと大丈夫。
そう確信しているのに,それでもミントスの宿について,クリフトの部屋のドアを開けるその瞬間は,不安になった。


「クリフト!!」


期待した綺麗な声の返事は帰ってこない。クリフトはベッドの上で静かに眠っていた。
それでも少しだけ喉が動いて,そしてうっすらと目を開けてくれる。

「クリフト…!」

駆け寄って呼びかけると,クリフトの右手がのろのろと上がって,わたしの頬と髪に触れる。
けれど温かさを確かめる間もなく,その手はまたベッドの上に落ちてしまった。
お願い,起きて! 目を覚まして!!


「大丈夫。眠っただけよ」


クリフトの身体を揺さぶろうと身を乗り出したわたしの肩に,優しく手が置かれる。
洞窟の中ですれ違った,褐色の肌のお姉さんだ。……ううん,やっぱり違う。似ているけど。
逆の手には小さなすり鉢を持っていた。じゃあこのドロドロにすりつぶされているのが,パデキア?

「パデキアはしっかり飲んだし,しばらくすれば目を覚ますと思うわ」

柔らかくて穏やかな声に,目と鼻の奥がぎゅっとなる。
ああ,今度こそ本当に大丈夫なんだと,そう思えた。


「よかった…」


クリフトのベッドの上に腕を投げ出して倒れこんだ。
他にも大勢の人が部屋の中にいたことに気が付いたのは,情けないことにこの後だった。









部屋の中は,とても静かだった。
規則正しいクリフトの寝息。ベッドの横に椅子を置いて,それをずっと聞いていた。


さっきまでブライがいて,わたしがいなかった間の状況を簡単に説明してくれたけど,いま部屋にいるのはわたしとクリフトだけだった。



夕食の時間はもう過ぎている。けれど寝るのには早い,そんな時間だった。
わたしが戻ってくる前に,みんなは交代で夕食をすませていたけれど,わたしの分まで注文して,残しておいてくれていた。
ありがとう,ブライ。わたしがすぐに戻ってくることを,ちゃんと予想してくれていたのね。

宿の食堂で食べることを進められたけど,今はクリフトの傍を離れたくなかった。
それならばと,わたしとブライを残して,みんなは部屋を後にした。
気を使わせてしまったことは自分でも分かったけれど,ごめんなさい,今日だけは。




ゴンゴン,と,ずいぶん強いノックの音に,はっとなって振り返った。

「はい」

返事をすると,すぐに部屋に入ってきたのは,洞窟で叫び声をあげていた,あの男の子だった。
ブライがさっき言っていた。彼が勇者だ,って。
信じられない。普通の男の子なのに。


「食事持ってきた」

クリフトよりも低い声。寝ているクリフトに気を使って小声だけど,それでも元気な感じが伝わってくる。

「ここ,置いとくなー」

食事が載ったトレイをサイドテーブルに置いてくれる。
なんとなくぴょこぴょこした,特徴のある動き。緑の髪が合わせて揺れる。

「神官の兄ちゃんはまだ目ぇ覚まさないだろうから,とりあえず姫さんの分だけ」
「ありがとう。えぇと…」

椅子から立って名前を呼ぼうとして,気が付く。そうだ,わたしまだ彼の名前を知らないんだ。

「ノイエだ!」

緑の男の子…ノイエは,にっと笑って右手を上に向けて差し出してきた。

「アリーナよ」

同じように上を向けて握手する。手がクリフトよりも少し大きい気がした。


「ごめんね,洞窟ではろくに挨拶もできなくて」
「いや,あの状況じゃ無理だろ。お互い一瞬すれ違っただけで,あっという間に遠くに行っちまったもんな。
 あの仕掛け,もうわけ分かんねぇ。最終的に穴に落ちるのが正解だなんて…なぁ?」

少し青が混ざった緑の目に,人懐っこい笑顔。
クリフトよりも幼い印象を受ける。ひとつふたつ下か,でも肩幅があるし,童顔なだけで同じくらいかもしれない。
クリフトを見上げるときよりも首がずいぶん楽だった。背はクリフトよりも低い。


…わたし,比べる基準が全部クリフトになってる。何から何まで。



「顔色,良くなってきてるな」

ベッドの飾り板に肘をつきながら,ノイエはクリフトの顔を覗き込んだ。

「うん。倒れたときは,透き通りそうなくらいに白かった」

思い出しただけで少し怖くなる。立ったままのノイエには悪いけど,また椅子に座らせてもらって,話を続けた。


「クリフトってもともと色白なんだけど,あの時はもう,ほんとに真っ白で…」
「真っ白。……えぇと,ミルクくらい?それか,塩くらい?」

あまりな例えに軽く噴き出してしまった。いくらなんでも白すぎる。
笑わせようとしてくれてるんだ。わたしそんなに深刻な顔,してたのかな。
ノイエは体を起こして,飾り板をポンポンと叩きながらこちらに向き直った。

「なあ,俺が代わりについてようか?
 せっかく詳しい話は明日ってことにしたんだし,ちょっとは休んどいたほうがいいぞ」
「…うん。ブライも,綺麗なお姉さん達も,商人のおじさんも,同じこと言ってくれたんだけどね。でも」


クリフトの顔を見る。まだ起きる様子はない。


「今晩だけはここにいたいの」
「…そっか。じゃあもし途中でしんどくなったら,誰かに声かけろよな」
「ありがとう」





ドアが閉まる直前まで,ノイエは手を振っていた。
ぱたんという軽い音をきっかけに,世界が切り替わる。聞こえるのは再びクリフトの小さな寝息のみになった。



クリフトの顔は,客観的に見ても本当に整っている。
ななめから見た,頬から顎に続く線がとても綺麗。
形のいい眉。高すぎず低すぎない鼻に,薄い唇。
睫毛は影ができるほど長い。瞼の奥に隠れている瞳は,息をのむほど綺麗な青なのを,わたしは知っている。
そしてさらさらの髪は,空の色。
こんなに綺麗なのに,それでも女性的なイメージはまったくなくて,男の人なんだとすぐに分かる。
子供の頃はもっと女の子みたいな顔をしていたのに。


「ねぇ,クリフト」

頬に触れた。今日,二回目。

「ブライが言ってたよ。今の子が勇者なんだって」

ちゃんと温かい。

「たぶん,わたしたちと同い年くらいかな。仲良くなれそうだね」

瞼をなぞる。

「たくさん仲間が増えたのよ。回復魔法が使える人もいるって。自分達の船まで持ってるんだって」

髪をすくう。

「だからもう,こんなになるまで無理しなくても,いいんだからね」

やっぱり指からすぐにこぼれてしまう。

「具合悪いの隠して定期船に乗らなくても,大丈夫なんだよ」



目の奥が痛い。
ねえクリフト,いまわたし,泣きそうなんだよ。
ちゃんとわたしの代わりに泣いてよ。約束したでしょう。



「もう寝顔が見たいなんて言わないから。だから」

クリフトの胸に頬を寄せて,上掛けごと抱きしめた。



「起きて,クリフト」



体温だけじゃ,鼓動だけじゃ,返事をしたことにならないのよ。
起きて。お願い。青い目をわたしに見せて。




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小さな後書き

助かったことへの安心と,目を覚まさないことへの不安。
分かっていても,心配は心配なのです。
さて,ラストはクリフト視点で。

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