「私の,望みは」

自分より少し低い位置にあるノイエの瞳を見つめたまま,言った。

「あのかたの幸せ」

まだ目をはずさない。

「そして・・・私自身の幸せです」



ノイエが肩から手を離して,笑った。
いつもみたいに,にやりとではなく,自然に。

「行ってきます。でも何を言って,何を言わないかは,私が決める」







姫様は部屋にいらっしゃらなかった。
ノックしても返事がない。一体どこにいらっしゃるんだ。
姫様が食事から退席するとき,いつものように付き添わなかったことを後悔した。
マーニャさんとミネアさんのところかもしれない。そう思って歩き出して,しばらくして不意に鮮やかによみがえった記憶に驚いて,足を止めた。

そうだ,あの時と一緒だ。こうやって探し回った。
あの時,姫様はたしか・・・

私は逆方向に走り出した。





バルコニーへの古いドアを開けた。今日は月が出ていない。外は真っ暗だ。
それでも,気配だけは感じることが出来て。
安心した。

「そちらにいらっしゃいますね?」
「・・・・・・うん」

返ってきたその声に,思わず眉をひそめた。
先ほどまで,はしゃいでいらしたけど。
どうして・・・気が付いてあげられなかったのだろう。

声がしたほうへ近づく。
かなり傍まで行ってからようやく,姫様の輪郭だけが朧に確認できた。まだ目が闇に慣れていない。
手に何かを持っていらっしゃる。バスケット・・・?よくわからない。


「今晩は寒い。風邪をひいてしまいますよ」
「前にもここで,クリフトにそんなようなこと言われたっけ」
「ええ・・・そうでした」
「あの時は,ただ城を見ることしかできなかったけど」
「はい」
「今は,行動できる」

・・・なぜ,そんなに強い言葉を口にされるのですか。
声がもう,怯えて,震えているのに。

「ニア,幸せそうだったね」

シルエットのままの姫様は,なぜか突然姉の名前を出す。

「本当は貴族のお嬢様だけど。自分で,一生懸命働いて。なんだか輝いてて。
ウェイマーが結婚を許したのは,やっぱり正しかったんだ,って,思った」

街を統治する貴族の令嬢と,その街の仕立て屋の息子。いくら幼馴染でも,通常なら結婚は許されない身分の差だ。
それを許可した父上に周囲からの非難が集中したのを,私と姫様はよく知っていた。

「身分なんてやっぱり,関係ないんだね」

とっさに返事が出来なかった。
自分はずっと,その身分にこだわってきたから。
こだわってきたくせに,他の人には,『神の前では皆,平等です』と平気で教えを説いてきたから。
相応しい身分になってからでないと,言ってはいけないと。
言う資格を持ってからでないと,言ってはいけないと。
言葉の力に負けて,口にするのを恐れて,ずっと避けてきたから。


でももう今は,違う。


「本人たちが幸せになれるかどうか。一番大事なのは,その一点だと思います」

少し目が慣れてきて,ようやく顔が見えるようになった。
驚きで目を見開いている,姫様。

「・・・そうね」

ゆっくりと。徐々に笑みをかたどっていく表情の変化がとてもきれいで。

突然吹きつけてきた冷たい風に,姫様は身を小さくした。
やはり,そんな薄着じゃ本当に風邪をひきかねない。早くお部屋に・・・

「抱きしめて?」




――刻が止まった。
息が吸えない。吐けない。




いつもならここで,できるだけ優しい笑顔で,姫様を抱きしめる。
姫様の気が済むまで,ずっと抱きしめたままでいる。


「寒いから,あっためてくれる・・・?」
「!・・・・・・」


そう言った姫様の目に現れている葛藤。
私は決心した。




「いいえ。できません」
「えっ・・・?」
「もう,誤魔化すことが,できない」

今,自分はどんな顔をしているのだろう。

「言わないと。ちゃんと,言葉にしないと。もう・・・私は・・・」

これは本当に自分の声なのか。


「・・・・・・言って,くれるの?」

声に現れた戸惑いの中に,わずかな期待の色が見えた。
ああ私は両親や姉だけでなく,あなたにまで2年も待たせたのか・・・!


「幼い頃から」

一歩前に踏み出す。手を伸ばせば届く距離まで近づく。
張り詰めた空気が,さらに緊迫感を増す。


「毎日,一緒でしたね。
あなたは王女,私は神官見習い。
普通なら直接話をすることもかなわないような立場なのに。
私の本来の身分と,私が将来担う役割のおかげで,あなたと私は幼馴染として育った」

私を見上げたまま,姫様はこくりと頷いた。

「子供の頃は,一緒になって城中を走り回ってましたね。
お互い,遊び相手という認識しかなかった頃です。
でも気が付くと,あなたは王女としての教育を受け始められて。
そして私も,勉強に明け暮れるようになってしまった。睡眠を削りすぎて倒れて,あなたにご迷惑をかけたこともありました」
「あの時は本当に,心配したんだから。いくら周りから期待されてたからってあんな・・・」
「違います」

赤い瞳を捕らえた。もう,離さない。

「あなたの,傍にいたかったから」
「・・・!」
「あなたの傍にずっといるための資格がほしかったから私は努力したんだ!!」

バスケットが落ちた。息を呑む音。自分の腕に納まる小さな身体。



「あなたを。
愛してるんだ・・・・・・」





もっと優しい声で言いたかったのに。綺麗な言葉で伝えたかったのに。
さっきノイエに言ったときは,いろいろ飾った言葉も言えたのに。本人を前にしたらもっと言えると思ったのに。
結局は,こんな真っ直ぐな言葉しか出ない。鼓動の激しさを拾ったのか,声もかすれてしまった。

抱きしめる。力の限り。いつもみたいにそっとじゃなく。
このまま離れられなくなってしまえばいい。



「・・・ありがとう」

胸の辺りで,声がした。姫様がこちらを見ている。

「言ってくれて,ありがとう」

背中に手が回された。必死になってしがみついてくる姫様が・・・愛しい。

「意地になってたの。自分から言うものかって」
「ええ」
顔を上げさせて。

「わたしも,好きだったのよ」
「分かっていました」
髪に触れて。

「あなたもずっと,好きだったでしょ!」
「はい」
頬をなぞって。

「だから,待ってたの・・・!」
その唇を指で辿って。


止まらない。抑えていた言葉を口に出してしまったから,止められない。
・・・言葉には力がある,か。本当にそうだな。
痛いほどぴりぴりしたお互いの気配。決して柔らかくはならない。いつもの笑顔は出ない。
まるで戦場の真っ只中にいるよう。


「離さない」
「離れないわ」

重ねた唇は驚くほど熱かった。
その頬にも額にも睫毛にも耳元にも,唇を落とす。
同じように返される。
またくちづけて。何度も。
腕に力を込めて。
目が回る。頭がくらくらする。
唇だけじゃない。全身が熱い。
あぁ。








どのくらいの時間がたったのだろう。
長かったような気もするし,短かったような気もする。
そのうち立っていられなくなって。二人で座り込んでしまって。

私はバルコニーから落ちないように設置してある柵に寄りかかって,足を投げ出していた。
離れないといった姫様は,本当に離れない。ぴったりと隣に寄り添っている。
足元には,バスケットから転がり落ちたりんごが少しつぶれて,甘酸っぱい香りを辺りに漂わせていた。


「フィアナさんが」

小さな声。

「持たせてくれたのよ。りんご。あと,みかん」

姫様の目線を追うと,遠くに点々と丸いものが散らばっていた。

「食べれなく,なっちゃった」
「・・・すみません」
「ううん」

首を振った後,また抱きついてくる。
今度は,そっと,抱きしめることができた。


「約束よ」
「え?」
「傍に,いてくれるんでしょう?」
「はい」
「ずっと」
「ええ」

言葉を閉ざして抱きしめていた時よりも,ずっと暖かかった。

「・・・『王の補佐』として?それとも司祭長として」
「いいえ。両方。あと・・・別の権利も,一番あなたの近くにいられる権利も。欲張らせてください」
「・・・うん」


突然,首の後ろがぞわぞわした。目と鼻の奥が痛い。
なんだろう,この感覚?
・・・やがて,気が付いた。姫様が泣いている。
自分も涙を流していることに気付いたのは,もう少し後だった。


「やぁね,もう。・・・またクリフトが泣くのね」
「今日は,姫様も泣いてます」
「だって,悲しいんじゃないもの」


2年前。自分だけが泣いた日のことを思い出す。
あの時に,お互いの気持ちに気が付いた。
よくもまあ2年も引っ張ってきたものだと,今は少し可笑しく思える。
3つ目の名前なんかなくたって,こうして抱きしめることは,できるじゃないか。



「明日も,一緒に戦って」
「はい。傍にいます」
「取り戻そうね。勝って取り戻そうね。いろいろ。いっぱい」



もう,怖くなかった。
姫様ももう,怖くないんだと思う。



明日の決戦に負けることは,ないだろう。
星明りのみの夜空の下で,風の冷たさと姫様の暖かさとりんごの香りを感じながら,そう思った。



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小さな後書き

言葉にしようと思ったら,うまく言葉にならなかった。
それでも十分,伝わりました。クリフトも言っていますが,
言葉には本当に力があるとわたしも信じています。
この告白を境にまた,二人の関係は変わっていくんです。

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