…in a quiet voice.

見渡す限りの大海原の中,たった一隻だけの船は,どことなく寂しげに波に揺られていた。

夜空には,秋の終わりの星座が競うように輝いている。
風が,帆に溜まって船を強く前に進めようとする。しかし船はその場に留まったまま,頑として動こうとしない。
絶好の追い風だというのに,碇は下ろされていた。




最後に談話室にやってきたのは,舵をみていたトルネコだった。


「お待たせしました。碇,下ろしてきましたよ」
「さんきゅ,トルネコ」
「お疲れさまです。はい,これどうぞ」
「あぁ,すみませんミネアさん」

お茶のカップを受け取って,トルネコは空いていたソファーに腰をかけた。
クリフトが座るソファーの後ろで膝立ちになって,クリフトの左肩に右腕を預けていたノイエは,
8人全員そろったことを確認すると,珍しく神妙な顔をして頷いた。

「じゃあ,そろそろ話,始めるか」

左肩を軽く叩くと,肩の主は首を回してノイエを振り返った。
逆の肩には,アリーナがぴたりと,しがみつくように寄り添っている。
その向かいのソファーには,ブライが目を閉じて座っていた。

「・・・やっぱりまだ,無理っぽいか?」

ノイエの問いに,クリフトは,ゆっくりと頷いた。

「そっか・・・」

おもむろにクリフトは,テーブルに用意しておいたペンとノートを手に取った。
ノートを膝に載せ,ペンを走らせる。



『声を出そうとしても,音にすらならないようです』



急いで書いてもなお読みやすいその筆跡。



ライアンが腕を組みかえた。
トルネコが小さな目をさらにきゅっとしぼった。
マーニャの長い睫毛が揺れた。


声を失った神官は,左手でそっと喉を覆うと,静かに目を伏せた。








それは,一瞬のことだったのだ。

サントハイム王家の墓地で変化の杖を手に入れた一行は,魔族の居城があるという,南の小さな大陸を目指していた。
船の目的地を少しでも忘れさせようと,アリーナは,ノイエをいつもの倍の回数の甲板モップ掛け競争に付き合わせた。
夕食の支度が終わったクリフトは,二人を呼びに甲板に上がってきた。
仰向けに転がってぜいぜいと息をしているノイエと,船の縁に座り,クリフトに向かって得意げにモップを振るアリーナ。
どっちが勝ったのかは明白だった。思わず笑ってしまったクリフトの顔は,次の瞬間凍りついた。


アリーナの後ろに巨大な水柱が上がる。
全身を赤く光らせたトドの怪物が,アリーナに襲いかかる。
咄嗟に避けようとしたアリーナの足に,モップの柄が絡んだ。アリーナはその場に転んだ。

寝転がっていたノイエが叫びながら上半身を起こすが,間に合わない。
クリフトも剣を抜きながら走るが,距離がありすぎる。
アリーナは少しでも身をひねってかわそうとするが,トドの巨体の影はもう,すっぽりと自分を覆っていた。

絶望的な状況だった。
アリーナは目を閉じることも叫ぶことも忘れた。
降ってくる肉の塊。奪われた視界。



クリフトの短く鋭い声がした。


魔物は瞬時に塵と化し,風に流れて消えた。








「・・・声出なくなったのは,その直後から,なの?」


マーニャの質問にクリフトは頷いた。
姉の隣にいたミネアは,太ももの辺りのスカートの布地を強く握って,恐る恐る尋ねた。

「クリフトさん。あなた,そのときに使った魔法って,もしかして・・・・・・」

ペンを持つクリフトの手が動き出し・・・途中でしばらく止まる。
それでもやがて,文字は綴られた。


『そうです。ザキ。死の呪文と呼ばれるものです』


「・・・二百年ほど前に封印された,魔法じゃ」

手にした杖の宝玉を見つめたまま,ブライは小さな声で話し出した。

「敵を一瞬で無に返す,攻撃魔法の一種じゃ。
 昔は,ある程度上位の神官や僧侶は,皆この魔法を使えたらしい。
 ・・・じゃが,神に仕える者が全員,清らかな心を持っておるとは限らん。残念なことにの。
 何度となく悪用された結果,ゴットサイドの司祭たちの手によって封印された。
 今では,一部の魔物の間でしか使われとらんらしい」



船が縦に揺れた。
大きめの波が来たのだろう。その後すぐに,腹の底がひやっとするような落下感があった。



「そんな,呪文・・・どうして,お前が」

とぎれとぎれに,ノイエはなんとか言葉を発した。
その問いに答えようとしたクリフトだが,右手の動きはアリーナによって遮られた。


「・・・わたしが,話すわ。書くの大変だし,それに」

続きをアリーナは飲み込んだ。

クリフトは僅かに笑みを見せた。軽く頭を下げて,ペンを置く。
アリーナは身を起こし,お茶を一口飲んでから,幼い日に起こったある事件のことを話し始めた。







・・・クリフトが城で暮らすようになってから,半年くらいたった頃だったと思う。
まだ小さかった――5歳になったばかりだったわたしたちは,二人して城中を駆け回ってたの。
身分うんぬんがよく分からない頃だったし。まわりの大人たちも止めなかった。
幼馴染になるために,仲良くなるために,クリフトは連れてこられたんだから,当たり前よね。


ある日,わたしたちは書庫に忍び込んだ。
それも,普通の本が置いてあるほうの書庫じゃなくて,文書保存庫っていう,大事な契約書や書類がいっぱい置いてあるほうの書庫。
普段は厳重に鍵がかけられてて,絶対に入ることのできない場所。でも,その日は鍵が開いてた。
司書が入り口を入ってすぐのところで,書類を見ながら調べものをしていたの。

子供の頃って,好奇心旺盛よね。入ってはいけないっていう場所ほど,入ってみたくなった。
わたしたちは司書の目を盗んで中に滑り込んだの。
わたしたちの背丈の何倍もありそうな書棚に,びっしりと書類が詰まってた。
それがどこまでも延々と続いていて,まるで迷宮に迷い込んだみたいだったわ。
どんどん,奥へ奥へと進んだ。

そのうち,通路は少し広い場所で突き当たった。
そこは小さな部屋になっていて,全ての壁が書棚で覆われていたわ。
わたしたちが出てきた通路の真正面,その一番上の段に,その本はあった。


書類ばっかりの中で,ちゃんとした背表紙のある本はとても目を惹いたの。
今でも憶えてる。黒地に,銀の文字だった。少し小さめの本だった。
わたしはその本が妙に気になって,傍にあったはしごを上ろうとしたんだけど,クリフトに止められた。危ないからって。
でもね,どうしてもその本を見てみたかったの。・・・どうしてか,分からないけど。
そして,わたしはクリフトに頼んでしまった。
代わりに取ってきて,って。

・・・クリフトははしごを上って,本を手に取った。
わたしは下から,なんの本だった?って聞いたの。
子供でも普通に持てる大きさだったから,クリフトはその場で本の名前を確認してくれた。
でも,表紙の文字はぼろぼろで全然読めなかったんだって。
クリフトは本を開いた。いつもの本と同じ感覚で,ページをめくった。

その本,普通の本と違って,逆開きだったんだって。後から,聞いたんだけどね。
クリフトが見た最初の1ページは,実際には最後の1ページだった。
クリフトは急に気を失って,はしごの上からわたしのすぐ横に落ちてきた・・・。








「・・・そのページに記されていたのが,死の呪文,だったの」


アリーナの話は,そこで終わった。
訪れた静寂を,誰一人,破れない。皆の耳に入るのは,波の音だけになった。


アリーナは俯き,再びクリフトの肩に寄り添った。
クリフトは少しだけ,右肩を下げた。

止まっていた皆の刻が,ようやく動き出した。

「そんな・・・。一目見ただけで憶えてしまうなんてこと,あるもんなの・・・?」
「マーニャよ。おぬしの言うとおり,通常はありえんことじゃ。
 さっきも言うたようにこの魔法は,高等魔法じゃしの。5歳の幼子が憶えるはずがない。
 ・・・しかし,長きに渡って封印されてきた魔法は,それ自体が意思を持ち始めるという。
 自身を解放してくれる者を,使い手を,自ら選ぶのじゃ」
「それで,クリフト君は運悪く,その魔法の解放者として選ばれてしまった,ということなんですか・・・」
「で,さっき初めて,実際に死の呪文を唱えて・・・その後なぜか声がでなくなった,って訳ね」
「もしかして・・・お前」

ノイエはクリフトの肩に置いた手に力を込める。

「高いとこ,苦手なのって・・・そのせいなのか?」


クリフトはほんの少しだけ眉を下げて,頷いた。
幼い心は,はしごの上からの落下という出来事と,死の呪文を覚えてしまった瞬間の恐怖とを,深く結びつけてしまった。
高いところから下を見るたびに,その時の感覚がよみがえってしまうのだった。


「そうだったのか・・・。
 まぁなんにせよ,今は,お前の声を取り戻す方法,みんなで考えないとな」
「さえずりの蜜,っていうのがあるの」

アリーナが口を開いた。

「前にもちょっと言ったけど,わたしのお父様も,声を失った事があるの。
 その蜜を飲んだら,お父様はまた話せるようになった」
「じゃあそれを今から取りにいけばいいじゃん!どこにある・・・」

ノイエの言葉はそこで途切れた。
クリフトが首を横に振ったからだった。アリーナもはっとなってクリフトを見上げた。
クリフトは再びペンを取った。

『おそらく,声が出ないのは一時的なものだと思います』
「一時的,って,お前・・・」
『呪文に込められている負の力が,喉に負担をかけただけではないかと』
「クリフト,本当にそう言い切れるの?さえずりの蜜を取りにいったほうが確実・・・」
『蜜が必ず手に入るとは限りません。今は前に進んだほうがいい。そのうちきっと,声も出るようになります』
「でも・・・」
「クリフトなら,大丈夫じゃろう」


向かいのブライが,静かに告げた。クリフトはノートに落としていた目を上げた。


「・・・呪文がおぬしを選んだのは,偶然ではなく,必然だったはずじゃ。
 負の力に屈しないだけの心を,おぬしは持っておる。声は必ず,戻る。・・・のぅ?」

クリフトの顔が一瞬だけゆがんで,やがて笑顔へと変わった。

ノイエは少し乱暴に,後ろからクリフトの肩を抱いた。


「・・・分かった。このまま進もうぜ」

ありがとう。目だけでそう言って,クリフトは,ふと思いついたように,身体の前で両手を組んだ。
目を閉じて意識を集中させる。まわりの皆は,クリフトが一体何を始めたのかよく分からずに,戸惑っていた。

組んでいた手をそっと離すと,腕に触れていたアリーナと,肩を抱いていたノイエ,そしてクリフト自身の身体が一瞬,淡い青の光に包まれて消えた。

「えっなに・・・?」
「・・・ベホイミ?いや・・・」

肩を落とすクリフト。ノイエはそれで事情が読めた。


「今の,ベホマラーだな」


以前,はぐれメタルの剣があった洞窟で魔物相手に苦戦を強いられた。回復が追いつかないのが原因のひとつだった。
それをきっかけに,クリフトは苦労してこの魔法を身に着けたのだ。それ以来,戦いは随分楽になった。

「ええっ?でもあたしたちにはかかってないわよ」
「呪文詠唱なしじゃ,回復の力が飛ばせない,ってことだと思う。・・・違うか?」
『その通りです。だから,直接私に触れていた二人だけにしか効果が及ばなかった』


文字が乱れる。右手に必要以上の力が入っているのが,アリーナには分かった。


『おそらく,スクルトも使えないでしょう。すみません,皆さんにご迷惑をかけることにな』

最後まで書くことはできなかった。ノイエに頭を小突かれたからだ。

「大丈夫,その分俺が回復にまわればいいだけの話じゃん?」


ノイエは立ち上がって,皆の顔を見回した。



「・・・俺がさっき,トヘロス唱えといたのはもう皆に言ったけど。
 あの魔法って,あんまり強すぎるやつには効かないんだってさ。
 でもとりあえず,唱えた後は,あのトドの魔物は襲ってきてねぇ。
 ってことはきっと,不意打ちさえ食らわなければ,普通に戦える相手だってことだと思う」


話しながら,ノイエは考えをまとめていた。
真剣な顔のまま,右手を顎に当てた。


「あとは,数で襲ってこられると,ちょっと厄介な気がする。
 あいつ,どう見ても力で押してくるタイプだった。できれば今は,戦いたくない敵・・・だよな」
「・・・そうだな。ノイエ殿が回復にまわった場合,前線で戦う人数が一人減ることになる。
 敵の攻撃は,私とトルネコ殿,アリーナ姫に集中しやすくなるだろう。
 打撃のダメージを魔法で和らげることができないとなると,ますます苦しくなる。ノイエ殿の考えは正しい」
「さんきゅ,ライアン。おかげで頭ん中,すっきりした」


右手を下ろすと,ノイエは皆に向かって言った。


「俺,しばらくトヘロスを唱え続ける。・・・あぁ大丈夫だって!一回唱えれば寝てても半日は持つし。
 効果が切れたら,また唱えればいい。でも,問題は切れた直後」
「敵が,襲い掛かってくるかもしれない?」
「おぅ。可能性はある。そのときはさっき言ったように,俺は回復にまわるから。
 アリーナ,俺の分まで敵を吹っ飛ばしてくれな」
「うん,もちろんだけど・・・」
「ライアンとトルネコにも負担かけちまうけど,頼む」
「なぁに,任せといてくださいよ」
「あぁ」


トルネコとライアンに頷き返してから,魔法を操る老人と姉妹のほうを見た。


「マーニャとブライは,いつも通りの感じでな」
「了解。できるだけ派手にぶっ飛ばしてあげるわよ」
「海の水ごと凍らせてやるとするかの」
「それちょっと見てみたいかも。・・・ミネアには,いつもよりもいっぱい,回復魔法唱えさせちまうことになると思う」
「大丈夫よ。そのくらい平気」
「クリフトも,普通の回復魔法は使えるわけだし。まぁこれで,やられることはないはずだ」
「ノイエ,えらいね」


アリーナが呟いた。
その横でクリフトが,ようやく穏やかな表情を見せていた。


「ちゃんと,リーダーしてる」
「そうかぁ?でもやっぱり,行き当たりばったりだぞ。だって最後の作戦は・・・」

へへっと。いつものように笑って,ノイエは右手の人差し指を立てた。

「回復が追いつかなくなったら,みんな,クリフトに群がれ!!」



これには皆,笑うしかなかった。
当の本人のクリフトまでもが,声を出さずに笑っていた。

「あっはっは!群がれって,あんたねぇ」
「だってそれが一番じゃん!触れてさえいれば,クリフトはみんなまとめて回復できるんだし」
「いやぁ,実にノイエ君らしい発想ですねえ」
「でも,いいアイデアだろ?あぁ〜俺も覚えようかな,ベホマラー。覚えられるかな。
 クリフト,声が出るようになったら教えてくれ,な?」

クリフトの肩を,ばん,とひと叩きしてから,ノイエは扉の方へ向かった。

「じゃあ俺,碇上げてくるな!せっかくの追い風なんだから,ちょっとでも進んどかないと。
 ついでに舵も見てるから。誰か後で晩飯持ってきてくれ!」

そのまま走って行ってしまった。


アリーナは信じられないといった顔で,うめいた。

「・・・ノイエがご飯,後回しにするなんて」



「・・・・・・無理しちゃって」


マーニャのその呟きはあまりにも小さすぎて,誰の耳にも届くことはなかった。




第2話へ

小さな後書き

声を失ってしまったクリフト。
しかし,今回の話の主役は実は彼ではなく,彼の愛する人と,大切な友人だったりします。

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