舵をしっかりと握ったまま,ノイエは眼前に広がる暗色の海原を見ていた。


夜風は随分と冷たい。
舵の上には,波と雨避けの簡単な屋根はついていたが,横から入る風を防ぐことはできなかった。
もしかすると,北のほうではもう雪がちらついているのかもしれない。

寒さは苦にならない。今は,心が痛い。


ノイエはただ,海を睨み続ける。
昼間あれほど鮮やかな青に輝いていた海は,今はすっかり色を無くしていた。





やおら,船内へと続く扉が内側から開いた。
カーディガンを羽織ったアリーナが,食事をのせたトレイを持って静かに上がってくる。


「ノイエ,ご飯持ってきたよ」
「おぅ,わりぃな。・・・ここ,置いといてくれ」

ノイエはにっと笑って,顎で左横の低いテーブルを指した。上には小さめの海図が乗っていた。
海図を横にずらし,アリーナはトレイを置いた。

「あとこれも」
「あ・・・俺のじゃん」

防寒用の,紺のダウンジャケットだった。

「食事持ってここにくる途中,クリフトがノイエの部屋から出てきて。
 これ,渡されたの」
「・・・・・・そっか」


クリフトらしいなとノイエは思う。
しかし,いつもの彼なら,自分自身でこちらに届けにくるはずだった。
やはり,遠慮している。自分の声が出ないせいでその場に生まれる違和感を,なるべく皆に味わわせたくないのだろう。


方角を確認してから,ノイエは舵を固定し,両手を離した。
ジャケットを羽織る。・・・暖かかった。
その場に胡坐を掻いたノイエの隣に,アリーナが足を横に投げ出して座る。
彼女は手のひらに何かを乗せて,ノイエに差し出した。

それは,薄い紙に包まれた飴玉だった。

「・・・ん?飴?」
「食後に食べて。・・・ってちょっと?」

即座に紙を剥いて口の中に放り込んだノイエに,アリーナは思わず笑ってしまう。

「ご飯美味しくなくなるわよ?」
「それ同じこと,こないだクリフトにも言われたなぁ」



しばらくの間,二人は沈黙した。



ノイエは飴の包み紙をくしゃくしゃっと丸めると,ポケットに突っ込んだ。


「・・・あいつの声ってさ」
「うん」
「怒ってるときも,あんまり怒ってるって感じ,しないよな」
「そうね。・・・クリフトの声って,ほんとに綺麗だと思う。ちょっと高くて,滑舌よくて」

アリーナは投げ出していた足を起こし,両膝を抱え込んだ。

「でもきつい感じは全然なくて。柔らかくて,あったかい」
「だな。あいつに名前呼ばれると,なんか自分の名前,すっげーいい名前だなあって,思う」
「クリフトね。声,とっても大切にしてるの」
「ん・・・」
「普段着も,首回りが開いてるのってめったに着ないでしょ」
「おう。・・・あぁ,それでか」

いつも彼が襟の詰まった服を着ていた理由を,ノイエはようやく知った。喉を守るためだったのだ。

「いっぱい歌ってもらって,絵本,読んでもらって。クリフトの声,わたし,昔から大好きだった。
 なのに,わたしのせいで,クリフト・・・」


あの呪文を使わせてしまったのも・・・そもそも覚えてしまうきっかけを作ったのも,自分。
彼の声を奪ったのは,自分。
じりじりと迫ってくる不安と後悔の念に,アリーナは顔を伏せた。


「・・・どうしよう,ノイエ。このままクリフトの声戻らなかったら,わたし」
「お前のせいじゃない」


ノイエはきっぱりと言い切った。


「・・・・・・呪文の反動も,あるとは思うけどさ。もしかしたら精神的なものも,影響,でかいのかもしれない」
「精神的・・・?」
「あいつは言葉の持つ力を恐れてた」


サランでの喧嘩の後,クリフトが言った『言葉が怖い』という,その意味。
今になって分かる。クリフトが恐れていた言葉の力とは,これだったのだ。


「あの魔法を使ってしまった後の自分の声を,自分自身,聞くのが怖いのかもしれない。
 それから,俺たちに聞かれるのも」
「あ・・・」
「だから,声,出ねぇんだと思う。
 喉にダメージがきてるのも間違いないだろうけど,それだったら,
 かすれた声なり何なり,音くらいは出るだろ」


アリーナは目を見張った。そして頷く。


「そう言われてみれば,そうね」
「無意識で自己暗示かけてんだ,多分」
「クリフト・・・」

「・・・でも,大丈夫だって」



ノイエの声の調子が変わった。
めずらしく彼が,ごく自然な,穏やかな笑みを浮かべるのを,アリーナは見た。



「ブライも言ってたろ?クリフトの心は,言葉の力なんかに負けねぇ。
 大丈夫。絶対あいつの声,また必ず聞ける。名前,呼んでもらえる」


ノイエは口の中の飴玉を噛んで割った。甘さが一気に増す。


「なんか,うまく言えないけどさ。
 あいつは天才なんかじゃない。努力の塊だ。剣も,魔法も,すげぇ練習してるからこそ,強い。
 昔からそうなんだろ?神官の修行も,貴族としての作法も,ものっすごい勉強してたんだろ」
「うん・・・そうだった」
「あの声にしたって,そうなんだろうな。神様からの贈り物なんて,そんな一言で片付けられねぇよ」
「うん。あれだけ柔らかい声が出せるのって,きっとクリフト自身の努力の賜物だと思う。
 歌だって,子供の頃からいっぱい練習してた」
「おぅ。・・・だからさ,それだけ苦労して身に着けた声が,たった一回の死の呪文に負けるはずない」
「・・・・・・そうね」



横のアリーナの肩に左腕を回して,ノイエは二回ほど,軽く叩いた。



「今一番辛いのは,クリフト本人だ。俺らにできることは,多分,」
「今まで通り変わらずに過ごすこと?」
「・・・そういうこと」
「うん。・・・ねぇ,わたしさっきも言ったけど」
「ん?」
「ノイエ,えらいね。最近すごい,ちゃんとしっかりしてるよね」
「おだてても何にも出ないぞ?」
「その一言だけ余計」


わはははっ,と声を上げてノイエは笑った。
肩に置いていた手で,そのままアリーナの頭を撫でた。
赤い瞳に光が射した。


「・・・・・・変なの。いつもわたしが撫でるほうなのに」
「たまにはいいじゃん?
 ・・・な,元気出せって,アリーナ。俺はクリフトみたいに,代わりに泣いてはやれないけどさ」
「ノイエに泣かれても困るわ」
「そりゃそうだよな・・・って,話がそれた。
 とりあえず,今からでもクリフトんとこ行ってこいって。
 いつもみたいに,寝る前に二人でお茶飲んで,話,してこいよ。な?」
「・・・ありがと。うん,そうするね」
「ついでにちゃんと抱きしめてキスしてもらえよ?」


アリーナは思わずはにかんで頬を赤らめた。
クリフトにそうされるのは平気でも,改めてノイエに言われると妙に照れくさくて,アリーナは話題を変えた。


「・・・そういえばさっきノイエ,また名前呼んでもらえる,って言ってたけど」
「おう」
「ちょっとそれ,羨ましいな。わたしね,クリフトに名前呼ばれたことないの」
「あ・・・。じゃあ子供んときからずっと,『姫様』?」
「そう」
「そしたら,あいつの声が戻ったら呼んでもらおうぜ!」
「えっ・・・?でもそんな,『名前呼んで』なんて急に言ったら,なんか変じゃない?」
「大丈夫」


会心の笑みを浮かべて,ノイエはアリーナの背中を強めに叩いた。


「俺にまかせろ!」








小柄な影が,船内へと消えて行った。


足音が聞こえなくなったのを確認してから,ノイエは再び舵に向かった。
固定を解除し,右手でしっかりと握る。
逆の手で,テーブルのトレイの上からパンを取った。

しかし,いつまでたっても口に運ぶ様子はない。その顔から,笑みは完全に消えていた。
唇を色が変わるほどに噛み締めている。


やがて彼は,うめくように呟いた。



「・・・アリーナのせいじゃ,ねぇんだよ・・・」



―あの時もし自分が,メラでも何でも咄嗟にぶつけていれば,こんなことには。



飴の甘さはいつの間にか消え,変わりに舌の上に広がったのは,鉄の味。


それでもノイエは,前を見ていた。
後悔はしない。する暇があったら,クリフトを,アリーナを,皆を守るために時間を使おうと,彼は決意していた。
しかし,湧き上がる悔しさだけはどうしようもない。



「ちくしょう・・・」



ノイエは頭を一度振ると,目を閉じて魔法の気配を読む。
漂う清らかな力はまだ,さほど減ってはいない。トヘロスの効果が切れるのはおそらく明け方頃だろう。
この魔法を使えるのが自分だけだという現実を,彼はよく理解していた。



今,自分が倒れるわけにはいかない。

漆黒の海を見据えたまま,ノイエは血の味がする唾を飲み下すと,パンにかじりついた。



第1話へ戻る 第3話へ進む

小さな後書き

その強さの全ては,二人の友を,仲間を,守るために。

ノベルに戻る
トップ画面に戻る