「明日の朝もまた,新しい目覚めが訪れますように」


最後の言葉は殊更,姫様とぴったりそろえた。
残響が礼拝堂に広がる。このまま消えなければいいのに。
ふた呼吸するほどの間に,また静寂が訪れてしまう。

先に立ち上がって,手を差し出した。

「どうぞ」
「あ,うん,ありがと」

触れた指先が冷たい。


「たまには,こういうのもいいわね」
「また,一緒にお祈りしましょう」
「そうね。・・・もうちょっと,お話したいな?クリフト」
「私の部屋にいらっしゃいますか?ここは少し,冷えますし。
 あ・・・でもまずいようでしたら,羽織るものを持ってきてここで・・・」
「え,なんで?部屋じゃ駄目なの」
「・・・いいえ。では参りましょう」


せっかく今はまだ,自由なんだから。
祭壇のろうそくを点けるのは,ぎりぎりまで後にしよう。







部屋に入ってすぐにランプに灯を入れる。簡素ないくつかの家具が,闇から浮かび上がった。
本棚に整然と並んでいる本。背表紙の装丁,金色の部分だけがゆらゆらときらめく。
机の上にあるお気に入りのインク瓶が,細い十字の光を放つ。


お茶を淹れようとしたら,姫様は遠慮された。めずらしい。

「明日の準備もあるでしょ?いいよ,荷物詰めたりしながらで。話し相手になってくれれば,それでいいから」
「ですが・・・」
「いいの」

譲らない姫様。どうしたんだろう,いつも必ず飲んでいかれたのに。

・・・と,窓のほうで耳障りな音がした。硬いものでガラスを引っかいたときの,あの音。
なんだろう?こんな夜更けに鳥はこない。侵入者?まさか。


「ちょっと失礼します」

姫様に断ってから,窓のカーテンを一気に開けた。



   ま〜。



か細い鳴き声。
白地に灰色のポイントがある猫が,窓ガラスに肉球を押し当てていた。
ミーちゃんだ!慌てて窓を内側に開いた。

「ミーちゃん,どうしてこんなところに」
「なぉー」
「ミーちゃんがいるの?」
「ええ。・・・おいでミーちゃん・・・・・・よし,いい子だね」


しっかりと抱きかかえたら,腕の中がふわふわの毛でいっぱいになった。
ミーちゃんは神官服の大きなボタンに頭をこすり付けながら,ごろごろと喉を鳴らした。
いつのまにか傍にきていた姫様がその喉を撫でた。さらにご機嫌になる。


「花台のところにいました」
「あの木から飛び移って,降りられなくなったのかな」
「そうかもしれません。ここだと狭すぎて,踏み切るスペースがなかったのかも」
「なぁにミーちゃん,そんなにわたしの真似したかったの?
 あ,クリフトわたしにも抱っこさせて」


・・・そうだった。つい先日,姫様も窓からひらりと入っていらしたんだった。
腕の中のぬくもりをそっと姫様に渡す。姫様は抱き上げてキスをしたあと,その真っ白なお腹の毛に顔を埋めて頬擦りした。
ミーちゃんは短い鳴き声を上げて,少しだけ抗議した。

「はいはい,ちゃんと膝に乗せてあげるから」

姫様が椅子に座ると,ミーちゃんはすぐに膝の上でくるくると回りだした。
居心地のいい角度を見つけると,そのままのんびり毛づくろいを始める。


「このまま寝る気満々みたい。・・・もう,しばらく動けないじゃない」
「なんだかとってもうれしそうに見えますよ?」
「え?・・・わたし?ミーちゃん?」


応えずに笑ってごまかした。
窓とカーテンを閉めて,自分も向かいの椅子に座った。姫様が話し出されるのを待つ。


「・・・だから,準備しながらでいいってば。あんまり気を使わないで」
「そう・・・ですか」

もう二度目のその言葉。
半月前の姫様からは考えられない。

「でしたら,甘えさせてもらいますね?」
「うん」
「でも,実はもう,ほとんどの用意は終わってしまったんです。
 必要なものは詰めたし,薬草ももう調合したし・・・・・・あ」



そうだ。あれはまだ準備していなかったんだ。



「香草茶,ブレンドしてもよろしいですか?明日からの旅にもって行く分」
「もちろん!」









クリフトは,本棚の横の戸棚から小さな缶をいっぱい取り出してトレーに乗せて,テーブルに置いた。

「これ・・・全部お茶の材料なの?」
「ええ,そうですよ」
「すごい数・・・ね」

順番に蓋を開ける。いろんな香りが一気に広がって,なにがなんだか分からない。
普通の紅茶葉,ラベンダー,カモミール,ミント。わたしが見て分かるのはそれくらいだった。
ほかにも,葉をくるくると丸めて小さな玉状にしたもの,乾燥しているとは思えないほど鮮やかなオレンジ色をした花びら,
さらには,それお茶にしちゃうの?と確認したくなるような形や色をしているものまであった。


たわいもないわたしの話に上手な相槌を打ちながら,正確に葉を秤で量って,次々とお茶を作っていく。
ほんとに手際がいい。つい「うわぁ」とか「おお〜」って声を上げてしまう。
薬草の調合で鍛えた感覚は,お茶にも生かせる。前にそんなことを言っていたのを思い出した。
でもここまでくると,なんだか魔法みたい。



「これは,いつも神学の授業の後に淹れていたものです」
「ちょっと貸して?・・・あ,ほんとだ。あの香りがする。こんなにいろんな葉が入ってたのね」
「ええ。どれか一つでも欠けたら,この香りにはならないんです。不思議ですね」



一つでも欠けたら。

また思い出してしまった。あのときの,脇腹を血に染めた姿。
自分の身体が強張るのが分かる。
膝の上で眠っているミーちゃんが,長いしっぽをふさりと揺らした。
頭をそっと撫でたら,耳をぴくりと動かした。

顔を上げたらクリフトと目が合った。青い目がすっと細くなる。


「・・・ねぇ,クリフト」
「なんでしょう」
「変なこと言うけど,いい?」
「え・・・?」
「クリフトがいなかったら,多分,わたしは今のわたしにならなかったと思うの」



匙を持つ手が止まった。



「この先も,欠けちゃ駄目だからね」
「・・・・・・はい」
「絶対に」
「約束します」
「じゃあほんとに誓って?
 無理をしない,大怪我をしない,生きてわたしの傍にいる,って」



ミーちゃんがちょっとだけ姿勢を変える。
・・・重いよ,ミーちゃん。



クリフトが匙を置いて席を立った。
わたしの椅子の横で跪くと,首にかけていたロザリオを服の上に引っ張り上げた。
首からは外さないまま,右手で持ち上げてこちらに差し出す。


「どうぞ」
「あ,うん」



・・・どうしよう。自分で誓えって言っておいて,なんだかどきどきしてきた。

ロザリオを持つと,その上からさらにクリフトの左手が重ねられる。
ミーちゃんを膝に乗せたまま,わたしは静かに誓いの言葉を待った。唾を飲む。喉が痛い。
クリフトは目を伏せて,そっと口を開いた。





・・・・・・どうしてそこで,神聖語を使うかな・・・。


滑らかに紡がれる言葉は早すぎて聞き取れない。
神学の授業,ちゃんと聞いてなかったから分からない。
わざと?・・・ねぇわざと?
それとも素でやってる?神聖語のほうが神様に届くからって。

最後に手の甲にキスを受ける。これで誓いの儀式は終わり。個人対個人の簡単なもの。


「・・・授業の復習?」
「いいえ?」
「お互いの名前くらいしか聞き取れなかったじゃない」


・・・なによぉ,そんな顔で笑うなんてひどいよ。もう。
悔しいから明日ブライにも誓ってもらおうかな。


「・・・でもこれで,」
「はい」
「何が何でも死ねないわよ」
「・・・ええ」
「もちろんわたしもだけど」
「当たり前です」


声の感じが急に変わった。
笑って下がっていた眉がいつの間にか元に戻っていた。


「そんなこと,言わないで」
「あ・・・ごめん」
「あなたのほうこそ絶対に,欠けてはいけない人なのだから」
「うん。王女の自覚はあるのよ。・・・一応」



クリフトもブライも,お父様も,膝の上のミーちゃんだって。
どれか一つでも欠けていたら,少し違うわたしになっていたと思う。
でも,今のわたしが好き。
この半月でいろんな思いをしたけど,それでも武術大会に出ようとするわたしが好き。




「守ってね,クリフト」
「・・・はい」
「わたしも,守るから」

お父様,クリフト,ブライ,ミーちゃん,サントハイムの人たちみんな。
わたしが,守る。だからみんなも,わたしを守って。
16歳になる前に,もうちょっと成長して,帰ってくるから。




クリフトは何も言わずに頷くと,また匙を手にとって作業を再開した。


・・・お茶,作りすぎじゃない?
もうあと半月しか,ないのに。

でも,わたしも,もう少しだけその魔法を見ていたいと思った。




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小さな後書き


旅立つ前よりも,少し,でも確実に成長した二人。
どうかこの先も,温かい目で見守ってやってください。

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