ひんやりとしたロザリオの向こうに,姫様の体温を感じた。


ゆっくり唇を離す。
名前を呼ばれる。前髪に触れられる。
傷つけてしまったのに,こないでとまで言わせてしまったのに。・・・なんて綺麗に笑うんだろう。目が離せない。

自分も姫様の髪に触れた。
レイクナバでタオルに隠れて口づけた,亜麻色の髪。部屋にいくつも置いてあるランプに照らされてきらきらと光る。
ひとふさ手にとって軽く唇を押し当てると,柔らかな髪が何本か名残惜しそうに唇に纏わり付いてきた。

そのまま抱き寄せて唇を重ねた。最初は軽く。次に深く。
ため息しか出ない。離したくなかった。触れていたい。誰にも渡さない。



姫様の手が伸びてきた。両腕を首に回して爪先立って,喉の下にキスされた。
そうか,さっきから襟が開きっぱなしだった。
身長差がつらそうなので少し屈んだら,昨日自分がしたように耳朶を噛まれた。左肩が震えた。
何故だろう,身体は熱いのに,頭の芯のほうで何かがすぅっと冷えていく。

その場に膝を折って座った。自分も返す。鎖骨の窪みに唇を落としたら,姫様が息を呑む音が聞こえた。
首の後ろから髪の中に手を差し入れた。姫様の身体が後ろに傾いた。
絨毯の上に長い髪が広がる。

首筋を指でなぞって肌のすべらかさを確かめた途端,そのまま動けなくなった。




「・・・・・・クリフト?」




どうして,こんなに。


「・・・すみません」

どうして。

「もっと,触れたいのに」


動けない。急に,姫様自身が何かとてつもなく神聖なもののように感じられて。
情熱だけが空回りする。どうしても手が動いてくれない。悔しいが,どうにもならない。



「・・・今の私にはまだ,あなたに触れる権利がないのかもしれない」

素直に思ったことを告げると,姫様は数回瞬きをした後,ふわりと笑った。

「クリフトも・・・背伸び,してたのね」



あぁ。そうだった。
大人のふりをしていたのは,姫様だけじゃなかった。



姫様の目にいくつものランプの灯りが映りこんでいた。
今まで幾夜,こんな灯りの下で共に過ごしてきたんだろう。
はしゃぎ疲れてよく一緒に眠ってしまった幼い頃。絵本と歌をせがまれた少年時代。
ブライ様に咎められないのをいいことに,相変わらず寝る前に話し相手になっていた旅の最中。
そしてハーブティーで自分を誤魔化していた,ここ最近。

これまで少しずつ,さまざまなものを積み重ねてきた。時間をかけて。
またあなたと共に眠れるのは,たぶんもう少し,先のことなんだろう。
時間と場所と想いがうまく合わさった時に,きっと。



絨毯に倒れていた姫様を起こして,両腕を回した。

「・・・でも,こうして抱きしめることは,できます」
「うん」


姫様がまた,ロザリオを手に取った。小さなプレートを指ですくう。

「いつかこの名前に,誓おうね」


サントハイムの貴族が結婚するとき。誓いのキスは,名を刻んだプレートごしに行う風習がある。
私の名前を,あなたに。そんな意味が込められているらしい。


「許婚なんて,ばっさり断ってやるから」

そう言って姫様は笑った。強くて弱くて,でもやっぱり綺麗で。


額と頬と唇。順にゆっくりとキスを落とした。
腕の中に納まってしまう,小さな姫様。
どうしてもっと早く抱きしめてあげなかったんだろう。船室で,宿で。
抱きしめたら傷つけてしまうだなんて,なぜそんな風に思ってしまったんだろう。

今はこの温もりのすべてが愛しかった。








昨日の夜と同じ廊下を歩く。
相変わらず静まり返っていた。気分はかなり,違うけれど。

自分の足音に,他の足音が重なった。
廊下の向こうに人影が見えた。ブライ様だった。


「遅かったのう」
「・・・すみません」
「目が冴えてしもうての。少し歩いておった。・・・部屋に戻るか?」
「はい,すぐに」

嘘,なんだと思う。いつもすぐにお休みになられる。
でも,私もブライ様と少し話をしたかった。部屋までの距離は,ちょうどいい。


「・・・姫様に,言うたか?」
「ええ」
「そうか。で,許婚など嫌だ,断ると仰ったじゃろう」
「はい」
「ではもうこの話はなしじゃな。婚約は即破棄じゃ」
「・・・え?」


意味がよく分からない。


「もともとそんな約束じゃったしの」
「約束?」
「姫様の許婚を決定するにあたって,向こうの親は厳しい条件をつきつけてきおった。
 まずは,公にしないこと。そして本人たちにも言わないこと。
 それではなんの意味もないとわしは思うんじゃがのぅ」

確かに。相手の親はなぜそんな条件を提示したのだろう。
公になっていたほうが,明らかにその家の影響力が増すのに。


「次に,あくまで本人たちの意思を尊重したいとのことじゃった。
 成人した後,両方に確認して,どちらかが断るようなことがあれば婚約はさせない,とな。
 仮にも息子が王女の許婚に選ばれたというのに,本当に我侭な親だと思わんか」
「え,えぇ・・・。でも,その方は,お子さんのことを本当に大切に思っていらっしゃるのですね。
 自分の立場よりも何よりも,我が子の幸せを優先させたのですから」

そう,相手の親だけではない。通常ではありえない条件を了承された陛下も。


「・・・ではそのおかげで,姫様が『嫌』と言えば,なかったことになるのですか?」
「まぁ,そういうことになるが。・・・悲しむじゃろうなぁ」
「?相手の方が,ですか」
「ウェイマーが」
「は?」


どうしてここでまた父上の名前が出てくるんだ?
ブライ様は混乱する私を見て,いつものようにほっほっほと笑っている。


「さっきおぬしが言ったように,立場を無視して我侭を通しおったからのぉ。
 末っ子は目に入れても痛くないほどかわいいというが,本当じゃな。ほっほ」





・・・ええと。

今聞いたことをもう一度頭の中で組み立ててみる。


そういうこと,なんだろうか。
もしかして私が城に預けられた一番の理由は,それ,だった?
確かに,司祭長と合わせ技で,『王の補佐』にはぴったりな肩書きだけれど。


・・・どうしよう。純粋にうれしいけれど,あまりに突然すぎてどう反応していいのか分からない。
笑いたいのに笑えないし,驚きたいのに驚けない。どうしよう。


「さて,わしはこれで寝るとするか」

・・・いつの間にかもう,私たちの部屋の前まで来ていた。

「ん?姫様に吉報を届けにいかんのか?」
「え?・・・え,えぇ,すみませんまだ自分自身が,混乱していて・・・」
「そうか」

おぬしは,幸せになるんじゃぞ。
ブライ様は小声でそう言って私の背中を軽く叩くと,先に部屋の中に入っていってしまった。




いったん締められた扉の前で,立ち尽くす。
ブライ様の言葉が温かさを伴いながら,ゆっくりと胸にしみこんできた。



ふと,気がついた。
もし16になって即,成人の儀式を受けていたら,その後すぐにこの事実を知らされていたのだろう。
姫様と旅に出ることもなかったはずだ。ずっと城の中で生活していただろう。
こうやって少しずつ,自分自身で成長していくことは,出来なかった。

子供から大人になるために,あがいて,よかった。



今はまだ,ロザリオに懸けることしか出来ないけれど。
でも,サントハイムへ戻ったら,私の名前に懸けて誓わせてください。姫様。
4歳から16歳までの12年間,共に駆け回り,話をし,うたを歌い,祈った。
私たちの帰るべき場所は,あの城以外にないのだから。


明日落ち着いたら,姫様に言おうと思った。婚約は破棄しないで下さい。
あぁ。そのとき姫様は一体,どんな表情を浮かべるのだろう。
そしてその後一気に顔をほころばせて,最高の笑顔を私に向けてくれるに,違いなかった。




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小さな後書き

彼らなりの羽化です。
あとは天気と風,そしてタイミング。全てがそろえば,きっと。

さなぎの時間を終えた彼らに,さらなる幸せが訪れますように。

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