そして,はじまりの夜
鮮やかな橙色の布が,温められた空気によっていっぱいに膨らむ。
巨大な篭が,ふわりと浮く。
気球は今にも,足元の白い雲を離れ,青い空の彼方へと飛び立とうとしていた。
「よっし準備オッケー!みんな乗り込め!!」
天空の鎧も,盾も,兜も,剣すらもその身から外したノイエは,満面の笑顔で最後の号令を出した。
8人揃って,雲の下の大地へと帰るために。
アリーナは左手で帽子を押さえながら,篭の端から身を乗り出すようにして下を覗きこんだ。
幾日もかけて渡った海。広大な砂漠。そびえ立つ険しい山々。
全てが信じられないほど小さく見える。まるで精巧に作られた模型かなにかのようだ。
「いつもよりも随分高いところを飛んでるのね!」
「それだけ,天空城が空の高嶺にあったということですじゃ」
「一体あの城はどうやって浮いてるんでしょうねぇ。・・・ああ,今少しずつ,いつもの高さまで高度を落としてますよ」
「おぅ頼んだトルネコ!」
「クリフトさん,大丈夫?」
「は・・・い・・・・・・・」
「クリフト殿,もう少し篭の中央によったほうがいい」
「結局この子の高所恐怖症とルーラ酔いは治らなかったわねぇ」
賑やかな笑い声が,風に乗って流れていった。
直後,不意に訪れた,会話の切れ間の静寂。
皆,考えていることは同じだった。
篭の縁を掴むアリーナの右手に,力が入る。
「・・・ここから一番近いのって,きっとサントハイムよね」
「そうなりますのぅ」
「大丈夫」
冴えない顔色とは裏腹に,しっかりとした声で,クリフトは言った。
「城の人々は,きっと戻ってきています」
「・・・うん。ありがとう。
あ,無理しないでクリフト,真ん中にいていいから」
「さぁ,確かめにいこうぜ」
友の代理とばかりに,ノイエはアリーナの肩を横から抱き,軽く叩いた。
気球はサントハイムの真上に達した。
白い大理石の壁。赤い石が敷き詰められたテラス。見張塔の青い屋根。
まだ,小さい。小さすぎて,色と形しか分からない。
徐々に高度が下がる。建物が大きくなる。
クリフトも,こわごわとだが篭の端までやってきた。アリーナの隣に立つ。
無意識のうちに皆,息をひそめていた。
・・・テラスの扉の傍に,動く影。
「誰かいるわ!」
「おお・・・!」
「戻ってきてんじゃん!よかったな!!」
「・・・あれは,父上・・・?」
恐怖心を必死に抑えて下を覗き込んだクリフトが,呆然と呟いた。
髪の色と服装で,それが父のウェイマーであると気が付いたのだ。
「えっ・・・」
アリーナは昨日,ウェイマーに,城の皆を出迎えてもらうよう頼んでおいた。
その彼がたった一人でテラスにいる意味を理解し,アリーナはその場に崩れ落ちそうになった。
咄嗟に両側のクリフトとノイエが支える。
気球の高度だけが,空しく下がっていく。
「そん,な・・・。みんな,いないの・・・?」
「おいっ,しっかりしろアリーナ!まだ諦めんな!」
「・・・・・・ああ!姫様見てください!ほら!!」
クリフトに促され,よろよろと下を見たアリーナの目に飛び込んできたのは,扉から現れたもう一つの影。
金茶の髪。男性としては若干小柄な体格。
傍らのウェイマーがこちらを指差す。男性が顔を上げた。
ゆっくりと,大きく手を振る,その姿。
アリーナの表情が一変した。
「・・・お父様!!」
気球がテラスに降り立つまでの時間が,なんと長く感じられたことだろう。
その間に,城中の人々が扉の向こうから次々と飛び出してきた。
兵士。メイド。学者。料理人。皆一様に,腕も千切れんばかりにこちらに向かって手を振っている。
待ちきれずに,アリーナは気球から飛び降りた。まだ結構な高さだったが,軽々と着地し,父王に抱きつく。
「お父様・・・!
よかった,ほんとに・・・!!」
「アリーナよ・・・。随分長い旅をさせてしまったな。よく頑張ってくれた」
温かい父の腕。優しい声。アリーナの目に涙が浮かぶ。
それを手で拭ってごまかすと,彼女は両手を腰にやって,眉を寄せた。
「もうっ。お父様がなかなか帰ってきてくれないから,わたしもう,19になっちゃったのよ」
「ははは!そうか,すまない。成人の儀式がまだだったのにな」
「うん。それに,教えてほしいことだっていっぱいあったんだから。
旅に出て,ちゃんと勉強しようって思えたところだったのに,お父様いないんだもの。
・・・3年間聞けなかった分,今日からいっぱい聞いてもいい?」
「ああ」
アリーナは再び,父王に抱きついた。
気球がテラスに降り立った。ブライとクリフトが,王とアリーナの元へとやってくる。
臣下の礼を取ろうとした二人を無理矢理立たせ,王は順に抱擁した。
ブライは「昔を思い出しますのぅ」と笑った。クリフトはただただ恐縮して固まっていた。
「クリフトよ。よく,アリーナを守ってくれた。礼を言う」
「お・・・,恐れ入ります」
「立派に成長したな。・・・ウェイマー,そなたも鼻が高いだろう」
「はい。自慢の息子です」
「この親馬鹿が」
ブライが杖の先でウェイマーを小突いた。そのあまりのタイミングのよさに,王は思わず表情を崩す。
「さて!積もる話は後にしよう。アリーナ,クリフト,まずは皆に顔を見せておいで。
あぁブライはここにいたほうがいいだろう。怪我をしたくなければな。
そうそうそれから,あちらの方々を紹介してもらわなくてはな」
言われて振り返ってみると,気球の傍で仲間達がこちらを見て笑っている。
「ええ!」「はい!」
王に遠慮をして後ろに控えていた城の人々のほうに,二人は飛び込んでいく。
見事にもみくちゃにされる。懐かしい顔,ずっと会いたかった人たち。
苦手だった礼儀作法の女性教師。いつもこっそりおやつを運んでくれたメイド。
敬愛する司祭長。シフォンの焼き方を教えてくれたシェフ。
一人一人と抱き合い,無事を喜び合った。
「クリフトちゃん!」厨房で働くマギーが,そのふくよかな身体とがっしりした腕で力いっぱいクリフトを抱擁する。
一瞬呼吸が止まるクリフト。アリーナが慌ててマギーの肩を叩いた。
「ぶあっはっは!!聞いたか?クリフト『ちゃん』だってさ!」と大爆笑する友の声が遠くから聞こえてきた。
テラスの下,中庭の花壇には,いっぱいの白い花。
その横であくびをする白い猫と,ふるふる揺れる青いスライム。
見張塔の先端には,3年ぶりに取り替えられた国旗が誇らしげに翻る。
サントハイムは,幸せな気配に満ちていた。
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小さな後書き
3年越しの,サントハイムの春です。
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