「みんなおはよう!」
「あら,おはようございます姫様」
「随分とお早いですね」
「なんだか目が覚めちゃったの」
「無理もない,久々の城ですからねぇ。そういうあっしも鶏より先に起きちまいましたよ」
「あたしもまだランプが必要な暗さでしたね」
「あはははは!」


朝の厨房は活気に満ちていた。大勢の料理人と賄いの女性たちが所狭しと動き回っている。
次々と皮をむかれて下茹でされていく野菜たち。その横のスープの鍋からはもうもうと湯気が上がる。
何十個もの卵が割りいれられたガラスのボウル。飛び交う専門用語。


「昨日の今日なのに,食材,こんなにたくさん準備できたのね。すごい」
「サランに店を構える八百屋や肉屋たちが,昨日のうちに用立ててくれたんですよ。いやぁ助かりました」
「おかげ様でなんとか,城に住む全員に温かい朝食を提供できそうですよ」
「張り切って腕を振るいますから!」
「うん,楽しみにしてるね。じゃあまた!」





厨房を後にして,アリーナは中庭へ向かった。
白い花が朝露を含んで輝いている。朝ご飯にありついた直後なのだろう,猫が前脚で顔を洗っていた。
朝特有のぴんとした空気。アリーナは大きく息を吸って背伸びをした。
その足元に猫が近づいてきた。再び転がって腹を出す。


「おはようミーちゃん」
「なーぉ」


思いっきり撫でてやると,猫は甘えた声で鳴きながらうねうねと身体を揺らし,頭を地面にこすり付けた。


こんな風に,朝早くに城の中を散歩するのがアリーナの日課だった。
昔から早起きは得意だった。メイドに起こされる前に起き,着替えを済ませて部屋を出る。
誰にも縛られない自由な時間。それが早朝と,就寝前のひと時だった。




猫に別れを告げて,再び廊下を歩く。
途中で衛兵たちに出会った。昨晩,父王の部屋の前を守っていた二人だ。
つい今しがた他の者と交替したばかりなのだろう。片方があくびをし,もう片方がゆっくりと首を回しながら歩いていた。
アリーナに気が付き,急にぴしっと姿勢を正す。


「おはようございます姫様!」
「おはよう。でもあなたたちは今からお休みよね」
「はい,そうです」
「見張りお疲れさま。ゆっくり休んでね」
「ありがとうございます。・・・あ,クリフト殿なら礼拝堂にいらっしゃいましたよ」
「え?・・・あ,うん」

行き先に気付かれてしまったらしい。昨晩と同じくほほえましげに自分を見る衛兵たちに,アリーナは少しだけ慌てた。

「じゃあ,せっかくだし会いに行こうかな。教えてくれてありがとう」

アリーナは駆け足で廊下を行く。衛兵たちはにこにこと笑いながら,その後姿が見えなくなるまでずっと見守っていた。








「・・・今日もまた,新しい目覚めを迎えることができました」



声が聞こえてくる。
礼拝堂いっぱいに反響し,廊下にまで溢れ出てくる透明な声。


アリーナはそっと,礼拝堂に足を踏み入れた。
クリフトが祭壇に向かい,膝をついて祈りを捧げていた。


扉のすぐ脇に立って,静かにクリフトの祈りを聞く。
今まで何度,こうして礼拝堂を覗いて,祈りの声を聞いてきただろう。
いつもと同じ祈りの言葉。変わらないクリフトの声。
だがアリーナには,そのすべてが新鮮に感じた。



ふっと,青い髪が揺れる。
クリフトがこちらを振り返った。

彼はゆっくりと,目を細めて笑う。瞳に湛えられた穏やかな光。
そして再び前を向いて,祈りを続ける。



なんという幸せな時間なのだろう。
身体の内から湧き上がる例えようのない幸福感に,アリーナは感動を覚えた。



「朝焼けに私の声を乗せて送ります。
 この祈りが御許に届きますように。
 今日という日が,あなたの祝福で満たされる一日でありますように」



高い天井に声が吸い込まれていく。
そしてアリーナの心にも広がっていく。
クリフトの祈りは,天上の神,地上の人,両方に捧げられるものだった。




クリフトが立ち上がって,アリーナのほうにやってくる。


「おはようございます」
「・・・おはよう」


再び朝の挨拶をするのは,少しこそばゆい。

着替えたばかりの淡い緑のワンピースを見せるために,アリーナはその場でくるりと回った。


「この服もちゃんとクローゼットに残ってたの」
「えぇ,覚えています。姉が作ったものですね」


明け方に,アリーナは自分の部屋に戻った。
クローゼットを開けると,そこには以前着ていた服がそのままの状態で残っていた。


「そう,ニアに作ってもらった服。ドレスよりもずっと動きやすくて気に入ってたの。
 でもこれからは,ドレスを着なきゃいけないことが増えてきそうだけどね」
「そうですね」
「クリフトも,あの白いのを羽織ることになるのね。それと正装と」
「はい」


司祭長は,神官服の上から白のダブルマントを羽織る。
王女の夫としての公務の際には,正装に着替えることになる。


「着替え,面倒そう」
「ははは・・・」
「ほかにも大変なこと,いっぱいあると思うけど。
 クリフト,一緒に頑張ろうね」
「ええ。あなたと共に。それから,陛下やブライ様,国中の人々と共に」
「うん。よろしくね」





天窓から降り注ぐ朝の光。
クリフトの暖かな手。
祈りの言葉のように,自分が世界に祝福されているのが分かる。


今日からまた,サントハイムの新たな歴史が始まるのだ。











「・・・エ。ノイエ」



声がする。自分の名を呼ぶ声。
遠くから呼ばれているような,それでいて耳元でささやかれているような。どちらとも取れる,甘い声。
ノイエの意識はふわふわと漂い,夢と現実の間をさまよう。


「ノイエ」
「・・・ん・・・。
 あ,れ・・・?」


髪を撫でられる感触に一気に目が覚める。
最初に見えたのはシンシアの笑顔だった。ノイエは飛び起きた。


「おはようノイエ」
「お,おはよう。・・・って,なんでシンシアがいるんだ?」
「おじさんとおばさんに頼まれたの。そろそろ起こしてやって,って」
「えっ?俺,寝坊した!?」
「うふふ。珍しいわね。もう朝食の時間,過ぎちゃったのよ」
「まじで?あぁ〜・・・」


村にいるときも,旅をしているときも,早起きだけは得意だったのに。
安心して気が抜けちまったのかな,と,ノイエは頭に手をやった。予想よりも随分手前で,髪が手に触れた。


「うわ,もしかして頭,すごいことになってる?」
「なってるわ」
「しまった・・・髪,半渇きで寝ちまった」
「直してあげるから。こっちにいらっしゃい」


シンシアは鏡の前の椅子を手で示す。
ノイエはベッドから起き出すと,大人しくその椅子に座った。寝間着のままだが仕方がない。

シンシアは水差しの水で,タオルを軽く濡らした。
それを広げて,ノイエの髪をそっと包む。


「母さんとおんなじ方法だな」
「だって,いつも見てたもの。お昼寝の後にこうやって直すところ」
「そうだっけ。いいよなぁシンシア,髪まっすぐで」
「そう?私はノイエの髪,好きよ。ふわふわで柔らかくて・・・」
「え・・・」
「・・・撫で心地がいいもの」
「・・・・・・」


にこにこと笑ったままのシンシア。
お子様扱いされて,ノイエは少しだけ肩を落とした。
もうどうせなら,めいいっぱい甘えてしまおう。ついそんなことを考える。



「今日は,お城に行くんでしょう?」
「おう。王様に礼言いにいかないと。でも,午後からでいいかな」
「そうね」
「腹減った」
「朝ご飯,ちゃんととってあるから」
「さんきゅー。じゃあそれ食ってから,ちょっとだけ出かけようぜ」
「私と?」
「・・・嫌?」
「ううん,うれしいわ」


タオルを取り払い,今度はブラシを手にして,シンシアはノイエの髪を少しずつ梳いてゆく。


「どこか行きたいところがあるの?」
「あぁ。いくつか」
「そう」


深くは聞かない。シンシアのそういうところも,ノイエは好きだった。
いつもこちらから話すのを待っていてくれる。


「俺の絵を気に入ってくれた人がいるから。ちょっと挨拶に行きたい」
「そうなの」
「あと,トルネコにももう一度礼を言っときたいし」
「そうね」
「それと・・・」
「なぁに?」
「すっげーうまいアップルタルト売ってる店があるんだけど」
「あら」
「・・・俺一人だと恥ずかしいから,一緒に来て」
「ええ。楽しみね」



ノイエはへへっと笑って,鏡越しにシンシアを見た。
視線に気が付いたシンシアが,やはり鏡越しにほほえむ。

朝にこんな時間が持てるのなら,癖っ毛も悪くない。





さあ,他にはどこにいこう。シンシアをどこに連れていこう。
どこにでも行ける。一緒に行ける。



始まったばかりの新しい一日に思いを巡らせながら,ノイエは髪に触れる手の心地よさに身を委ねた。



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小さな後書き

はじまりの夜,そして,あたらしい朝。
これからも彼らの物語は紡がれていきます。

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