磨りガラス

けっこう遅い時間だったせいか,大きな風呂は俺の独り占めだった。
レイクナバは北国の町。だから,熱めの湯に浸かる習慣があるんだってさ。さっきメシ食ったときトルネコが言ってた。
「ノイエ君のような若い子には少し熱すぎるかもしれないですね」って。
ほんとに熱かったぞトルネコ!足つけたとたん火傷するかと思った。

でも,大人になったら平気になるもんなのか?
・・・なんで?





湯船から出てもなかなか汗が引かない。これじゃあ風呂に入った意味がないかもとちょっと思った。
しばらくじっとして火照りを冷すことにした。ぼーっと脱衣所の籐製の椅子に座っていたら,身体がそこに置き去りになったまま意識だけがふわふわと自分の周りを漂いだした。不思議な感覚。


教会の鐘の音,パステルの桃色。アリーナの独り言と勘違い,そしてクリフトの決意と戸惑い。
今日はなんだか,いろいろありすぎた。



どうしてあの二人は,ああなんだろう。

シンシア。今日,お前の髪の色,見つけた。

そんなに焦って捕まえようとしなくてもいいのに。

まずは,お前の絵から描くな。

どうせなら戸惑ったりしないで,いさぎよく抱きしめてやればいいのに。抱きしめたいくせに。

おぅ,照れてるのか?笑ってくれてありがと。



・・・アリーナとクリフトとシンシアの顔がぐるぐる回る。湯当たりしたかも。
椅子から腰を上げてもう一度汗を拭いてから,寝間着を着た。まだあちぃけど仕方がない。
ものすごく喉が渇いていることに,今になって気が付いた。
ぱたぱた手で仰ぎながら一枚目の木の扉を開ける。出入り口は二重扉になっていた。もう一枚は磨りガラスがはめ込まれた引き戸。
随分厳重だけど,どうせ男湯なんて誰も好きこのんで覗かないと思うぞ。


「・・・っててね,約束よ」
「はい」

タイミングよく,向こうから二人の声がした。
引き戸を開けようとしていた手が一瞬止まってしまったけれども,思い切って一気に開けた。

「よう!」
「あ,ノイエ。もうお風呂あがったの?」
「おう。賭けてもいいぞ,二人とも絶対長湯無理」
「そんなに熱いんですか?」
「とりあえず,いきなり足は突っ込まないほうがいいぜ」
「そうなんだ。・・・うん分かった,気をつける。じゃあね」


アリーナは廊下の先の,女湯の戸を開けて入っていった。
クリフトのほうを見ると,なんだか心ここにあらずって感じの顔。さっきのことがまだ引っかかってるんだろう。

「先に風呂から上がっても,ここで待ってろ,って?」
「・・・ええ」

笑った。でも困ったときの笑い顔。

「そっか。じゃあまぁ,俺はなんか飲み物飲んでくるわ」
「はい。汗をかいた分,水分は大目に取って下さいね。あと髪はちゃんと乾かさないと風邪をひきますよ?」
「分かってるって。んじゃな!」

手を上げた後,俺はタオルでばさばさと髪をかき回しながら,食堂へ向かった。
乾かさずに寝たら次の日の朝,この癖っ毛がどうなるか。それは俺自身が一番よく知っている。







食堂はもう灯りが絞られていて,灯が入っているランプは壁とテーブルに一つずつだけ。
その,食事用というよりは酒を飲むための低いテーブルで,ライアンとマーニャが飲んでいた。
ちょっと大人な空気。灯りのせいもあるんだろうけど。
俺が入っていって,いいのかな。少し躊躇していたら,マーニャがこっちを見て手招きした。


「ほらほらノイエ,そんなとこに突っ立ってないでこっちいらっしゃい」

傍まで行くとマーニャに手を引っ張られて,ライアンとの間に座らさせられた。意外とふかふかな長椅子。

「・・・いいのか俺,この場所で」
「あぁら,あたしの隣は不服?」
「いやそうじゃなくて」
「なに飲む?」
「あ・・・んーと,とりあえず水」
「ええ?お酒飲みなさいよぉ」
「飲むけど,風呂上がりだからまずは水飲まないとやばい気がする」
「正解だ」

ライアンは軽く笑いながら,水割りに使う氷水だけをグラスに入れて,俺にくれた。
氷同士がぶつかって立てる涼しげな音。聞いているだけですうっと体温が下がる感じがする。

「水分が足りない状態でいきなり酒を飲むと,ノイエ殿はきっと呑まれてしまう」
「さんきゅーライアン」

受け取って,一気に飲む。喉を通って腹へ。ぐっと冷えてて気持ちいい。



「・・・っはー!うまかった」
「お酒よりよっぽどおいしそうに飲むわね・・・」
「めちゃめちゃ喉渇いてたんだよぅ」
「男ならそこでビールかなんか飲まなきゃ」
「じゃあまだ『男の子』でいいや」
「あら?拗ねちゃったの」
「べっつにー。あ,二杯目からはそれがいいな」


グラスを差し出すと,マーニャは「甘え上手ねえ」と言って俺の額を指で弾いた。びしりと結構すごい音がした。

「いてっ」
「あらぁごめん,痛かった?・・・やーねぇ,ちゃんと作ってあげるわよ。ちょっと薄めがいいわよね。・・・はーい,できあがり」

俺の前にゴトリと置かれたグラス。中には琥珀色の液体が揺らめいている。

「早えー!ものっすごい手際いいなぁ。・・・何見てんだよ?飲めるよ,こんくらい」

グラスを右手で掴んで,少し多めに口に含んだ。鼻に抜ける酒の匂い。よく冷えてるのに,水と違って喉が熱くなる。
ごくりと飲み込んだ後,なぜかため息がでた。



なにか食べるもんないかな。
テーブルの上の皿を順番に目で追った。どれもきれいに平らげてある。残っているのはナッツの盛り合わせだけ。

「随分いっぱい,食べたんだな」
「つい先ほどまで,トルネコ殿がいたのだよ」

納得。ライアンもマーニャも,夜遅くなるとあまり食べない。
ライアンは,胃がもたれるから。マーニャは,夜食は太る原因だからって。
じゃあなんで酒は大丈夫なのか。よく分からない。
俺はとりあえず,ナッツをいっぱい掴んで口に放り込んだ。

「・・・うぇ,しょっぱい」
「一粒ずつ,食べたほうがいいかもしれないな」
「そうする・・・」


なんとなくだけど,あの二人が・・・クリフトとアリーナが,俺と同い年じゃなくて,二十歳くらいだったとしたら。
さっきみたいに,あんなにもどかしい思いを感じることは,なかったのかもしれない。今,急に,そう思った。

ナッツの塩気は,舌の上からそう簡単に消えてくれそうにない。口直しの飲み物は水割りだけ。
このまましょっぱいのを我慢するか,それとも思い切って酒を一気に飲むか。
・・・どっちもヤだな。氷を一つ口に含んでばりばり噛み砕くと,歯茎に沁みた。






ちょっと飲んで,話をして,またちょっと飲んで。
飲んで減った分だけ,横からマーニャが足してくれる。自分がどのくらい飲んだのかもうさっぱり分からない。
時間の感覚もなくなってきた。多分そんなにたってないんだろうけど。だってあいつらがまだ風呂から戻ってきてない。

マーニャがまた俺のグラスに酒を注ごうとした。

「・・・あ,もういいやマーニャ。今入ってるの全部飲んだら,終わりにするから」
「そう?まぁ二日酔いになったら辛いしね」
「飲める分量までで,やめておくといい」

そう言ったライアンは絶対,俺の3倍は飲んでる。強ぇ。

酒は晩飯と一緒にぐびぐび飲むのが普通だったから,こういうのは少し慣れなかった。
飯のときに飲むと,一気に酔う。俺は正統派の酔い方をするらしい。ハイになった後,でろんでろんになる。
でもこうして少しずつ飲むと,いつもとは全然違う酒の回り方なので正直驚いていた。
頭の芯だけ冷えたまま,身体が少しふわふわする。そう,風呂上がりの逆。似ているようで,でも・・・やっぱ逆。


ランプに煌く琥珀色,漂う酒の匂い,ライアンの低い声,マーニャのぴかぴかに磨かれた爪。


「大人,かぁ・・・」
「・・・どうかしたか?」
「いやちょっと。なんかそう思っただけ。
 こうやって夜にちびちび飲むのってさ,なんか大人って感じじゃん?
 んで,こういう飲み方にちょっと違和感・・・というか,照れみたいなものが入る俺って,やっぱり子供なのかな,って」
「ノイエらしくないこと言うじゃない。・・・あぁ,違う。やっぱりノイエらしいわ」
「え?」
「お子様3人組の中じゃ,実はあんたが一番大人なのかもしれないわね」
「俺が・・・?」



クリフトじゃなくて?



『一番子供なのかも』の言い間違い?ぃや,違うよな,大人って言ったよな??

・・・びっくりした。
あっけに取られてたら,また計ったようなタイミングで二人の声が聞こえてきた。


「・・・がいいな。いつもの」
「分かりました。ではすぐに,準備します」

声に遅れて,姿も。
並んで歩いてるときの,その身長差は正直羨ましい。両方とも寝間着だから,いまいち締まりがないけどな。
アリーナそんな,しずく垂れそうなくらい濡れた髪してちゃ,お前こそ本当に風邪ひくぞ。
仄かな明かりに照らされた,上気した頬。多分風呂のせいだけじゃない。
じっと見てたら,急にこっちを向いた。髪から水が跳ねた。


「・・・あれ,みんなどうしたの?」
「のんびりお酒飲んでるのよ。二人も一緒にどう?」
「ううん,遠慮しとく。それに,クリフトにハーブティ入れてもらう約束取り付けちゃった」
「あら,そう?」

クリフトの袖をアリーナはぎゅっと掴む。
袖の持ち主はというと,黙って瞳を伏せた。そういうときの顔は妙に綺麗で大人めいてて。何故かちょっとだけ腹が立つ。

「それでは皆さん,お休みなさい」
「ライアン,マーニャ,ノイエ,お休みー」
「ああ。お休み」
「ちゃんと髪乾かしてから寝るのよ」

マーニャ,クリフトと同じこと言ってるよ。

「うん」
「お休みアリーナ。・・・クリフト,俺これ飲んでから部屋に行くな」
「分かりました。灯りはつけておきますね」





遠ざかる二人の背中。アリーナはもちろん,俺よりもだいぶ背の高いはずのクリフトまで,随分小さく見えた。
マーニャがふうっと息をついて,テーブルに頬杖を付いた。その拍子に,肘がボトルにぶつかってぐらっと傾いた。

「わっ」

やば!

「おわっ!・・・っとっと,セーフ」
「あぁノイエ,ナイスフォロー。ありがと」
「へへへ」
「まだそれほど酔ってはいないな,ノイエ殿」
「いや,もう結構きてる。ライアンのほうが全然じゃん。ほんと強いな」
「そうか?」

口の端っこだけで笑って,また飲む。グラスを持つごつごつした手が格好よかった。
俺も真似して同じ持ち方で飲んでみた。
からん,と。隣のマーニャのグラスの氷が崩れた。


「いっぱいいっぱいね。・・・ああノイエのことじゃないわよ,あの二人」
「・・・おう」
「見ていて,もどかしいでしょ?ノイエ」
「ものすごーく」
「アリーナは,大人になりたがってる子供ね。
 クリフトは,恋愛感だけで言えばきっとあなたより大人だけれど」


ゆらゆら。ゆらゆら。ぴかぴかの爪でマーニャはグラスをゆらす。


「自分の想いが強すぎて,がんじがらめ。
 押さえ込んでいる激しさが,見ていて痛いわ。なんてアンバランスな子」
「・・・すげぇな,マーニャ」

「あら。分かるわよ誰だって。
 ノイエ。さっきのボトルじゃないけど。倒れそうなとき,ちゃんと支えて・・・助けてあげなさい。特にクリフト。
 彼を支えられるのは,あなただけよ」

「俺,は・・・」
「あなただって,恋をしたこと,あるんでしょう?」




心臓がはねた。マーニャが目を細めてグラスを傾ける。また氷のぶつかる音。




・・・やっぱ,マーニャ,大人だ。
あと,何も言わずにただ隣で黙々と飲んでいるライアンはもっと大人だ。


俺はまた,少し多めに酒を口に含んだ。自分の息が熱かった。



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小さな後書き

わたし,お酒を飲むのが好きです。にぎやか一次会も,しっぽり二次会も。
特に二次会は,みんなお酒が回ってきて独特の雰囲気。
手に持つグラスから伝わるひんやりした感覚と,いつもより饒舌になる程よく酔った人たちが好きなんです。

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