グラスの酒を時間をかけてなんとか飲み干して。
マーニャとライアンにお休みーって言って,俺は部屋へと向かった。
二人はまだ飲む気らしい。34歳と25歳。俺・・・18。


夜の廊下は,食堂と違って思ったほど暗くなかった。
マーニャの言葉が耳の奥にこびりついてる。

「・・・んなこと言ってほしかったんじゃ,ないのに」


じゃあなんて言ってほしかったんだ。




・・・酔った。
すっげー酔った。いや,でも傍から見たら素面に見えるかもしれない。
手足は意思通りに動いてくれた。廊下は真っ直ぐ歩けた。
頭の中身はそれ以上に素面だった。むしろいつもより変に冷静。

今なら,言えるかな。部屋に戻ったらクリフトにいくつか,質問をぶつけてみようか。
でも・・・そんなことを考えてしまう時点で,確実におかしくなってるんだろうな。





部屋の扉が少しだけ開いてる。なんで?
隙間から漏れる灯りが,廊下の床と天井を糸のように這っていた。
ブレンドを間違えて薬臭くなってしまったようなハーブの匂いが鼻をかすめる。
クリフトのささやくような声が聞こえた。

おい,もしかして?
こっそり,そおっと中の様子を伺ってみた。

・・・やっぱり。アリーナまだいる。これじゃぁ俺,中に入れないじゃんよう。
酒も回ってるし,いいかげん俺も横になりたいんだけど。



テーブルにはすっかり冷めてそうなハーブティー。
小ぶりの二人掛けソファーに,並んで座っている。その向こうにもう一つ,一人掛けソファーがあるのに。
まだ乾いてない髪が,クリフトの寝間着の腕のところを濡らしていた。冷たそう。
そうやって触れ合うほど近い,距離。



「明日からまた,海の上だね」
「えぇ,そうですね」
「またお天気だといいね」
「はい」
「昼間買った野菜,どのくらいもつかしら。すぐ腐っちゃう?」
「いえ・・・大丈夫ですよ」



お前が大丈夫じゃねえよ。

痛い,聞いてるこっちが痛い。
ただの時間稼ぎかよ。・・・いや,アリーナはそうじゃないのか。タイミングを,計ってる?


ふいに会話が途切れた。
ハーブの香りが急に,むせ返るような匂いに変わった。握った手の内側が汗ばむ。

するりと,なにかの触手みたいにクリフトの背中に回る,しなやかな腕。

「クリフト・・・」


動作と声色が噛み合ってない。

捕らわれた獲物のほうは,ただ固まっていた。
・・・なんでだよぉ,抱きしめてやればいいじゃん。
安心させてやれよ。この期に及んで戸惑うんじゃねぇよ!

華奢な手が首に添えられても,顔がゆっくりと近づいても,あいつは動かない。
駄目だ,もう痛くて見てらんねえ。
また食堂に戻ろう。そう思って目をそらそうとした,そのときだった。


クリフトの左手がすっと上がった。
今にも触れ合いそうだった自分とアリーナの唇の間に,二本の指を割り込ませた。


アリーナがびくりと震えて目を開けた。
クリフトが小さく首を振ると,赤い瞳が潤んでぎゅっとなった。

「あ」

ここまできてようやく焦ったか。おせぇよクリフト。さぁ,どんな言い訳する?




「・・・すみません。今度,誰も見ていないときに」



げっ!!!


バンっ!

揺れるティーカップ,こっちを睨むアリーナ。

「ノイエっ!」
「はいぃ・・・んがっいででででで!」

アリーナ,力,力抜いてくれ痛ぇー!!

「わわ悪かったよぉ,ほんと覗いて悪かった!ごめんアリーナ」
「・・・・・・うん。確かに,こんな時間まで帰らなかったわたしも悪いんだけど」


あれ?えらいあっさり手ぇ離すんだな。
しかもちょっとへらへらしてる?・・・あぁそうか。
拒否られたのはきっと俺が見てたせいだ,って,安心した?


「ノイエも眠いよね,ごめんね」
「ぉ,おぅ?・・・おお」
「じゃ,二人ともお休み」
「姫様待ってください!」

クリフトは急に呼び止めた。そのくせ,振り返られて慌ててら。
荷物から乾いたタオルを手にとって,こっちに来た。眉の下がった笑顔。
見てて,小鼻の辺りがむずむずする。

「・・・ちょっと,乾かしましょう。失礼しますね?」


髪をひとふさ手にとる。
上から順にタオルで挟む。ひたすらその繰り返し。
アリーナはじっとしていた。黙って,クリフトの目を見ていた。
なぜか俺まで動けない。俺だけ先に横になっててもよかったのに。

少しずつ,少しずつ。髪をすくっては離す,柔らかに動く指先。
なぁアリーナ。分かるか?
クリフトがどれだけ,お前のこと好きか。大切か。

・・・伝わらないか?



ひと通り終わるころにはもう,雫は垂れなくなっていた。
最後にクリフトは,アリーナの頭をすっぽりタオルで包んで,そっと手のひらで押さえて整えた。
タオルから溢れ出て胸元に流れた亜麻色の髪。半乾きの艶かしい光。
そこからまたひとふさ,手に取った。
アリーナはタオルのせいで前が見えない。だからそのときクリフトが何をしたか,知らない。

でも俺は見てた。見ちまった。やっぱり先に寝ておけばよかった。


クリフトはその髪に口づけた。








アリーナが扉を閉める音は,いつもよりもやけに静かだった。


「・・・なぁ。お前こそ,そのままじゃ風邪ひくぞ」
「え?」
「腕のとこ,濡れてる。着替えれば?」
「あ・・・そうですね」

そんな顔で笑うんじゃねぇよ。

「・・・見てましたね?」
「んー?なにが」
「全部」


だから風邪ひくって言ってんじゃん。早く着替えろよ。


「・・・あぁもう。見たよ。見ましたよーだ。ごめん,悪かったなー」
「いえ・・・いいんです。ごめんなさい」
「なんでそっちが謝るんだ?」
「あなたが見ていたこと,利用してしまった」
「・・・うん,まぁ・・・な。扉,わざと開けといたんだろ」

アリーナと二人きりでも,いつもはピッチリ閉めるくせに。


「急に世間の常識に倣いたくなった?」

ブライにくどくど言われたことがある。山育ちだから俺はそんなこと知らなかった。
お前は,言われないんだよな。閉めてても。

「違います」
「それとも自信がなかった?」



・・・支え方なんてわかんねぇよ,マーニャ。むしろとどめ刺しそうで怖い。
いろいろ,言ってしまう。聞いてしまう。もう酒のせいにしてしまいたい。



「お前・・・さっき自分がどんなツラしてたか,分かってるか」
「分かっている,つもりです」


へぇ,自覚はあるんだ。
結局着替えないままベッドに腰を下ろした。髪の感触を思い出してるのか,左手で空気をつかむ。


なぁ。いつも優しい,穏やかな,神官のお兄さん?
さっきはその欠片すら感じられなかったぞ。
あのまま俺を無視して,アリーナ抱きすくめて思いっきりキスしてもおかしくないくらい。


「ノイエが見ていたから・・・あれで済んだ」

そんな雑音混ざった声,初めて聞くよ。

「・・・はは,さっき教会で誓ったばかりなのに。なんなんでしょうね」



なんでそんなに苦しむんだ?
好きなのには変わりないじゃん。
そんなに,つらくてつらくて,もうどうしようもないんなら,

「抱いてしまえばいいのに」



夜なのに,クリフトの顔色が変わるのがはっきり分かった。
あぁ違う,違う違うんだ!確かにそう思ったけど言うつもりじゃなかった。

「・・・わりぃ」
「いえ」


―静かだった。
窓の外から,かすかに小夜鳴き鳥の声がした。
逃げるようにそっちにいって,カーテンの隙間から覗いた。ガラスが露で曇っていて何も見えなかった。


「傷つけたくないから」

小夜鳴き鳥なみの声。

「無理,なさってるんです。いろいろと。
 だから,そのことに姫様が気が付かれるまでは・・・」

目の色が濃くなる。

「こちらから抱きしめたりしない」


また頭の中でマーニャの声がした。
恋愛感は俺より大人,か。そーだな,間違いないや。
あえて耐えるクリフトに,想いの強さと激しさと,あとささやかなプライドを見せ付けられた気がした。
さっき教会で見せた笑顔より強烈に。


「ん。まぁ,その気持ちも分からなくもないけどさ・・・」

俺が今,こいつに言ってやれることはなんだ?
なんて言えばいい?
マーニャみたいに相手の言ってほしいことをガンガン言ってやるなんてできないし,
ライアンみたいに無言で語るなんてもちろん無理で。
・・・どうしよう。言葉が続かない。やっぱ俺,大人なんかじゃないよマーニャ。



今度は犬の遠吠えが聞こえた。
カーテンを開けて,窓ガラスの露を指で拭いて外を見たら,海が見えた。
月明かりが波の上を漂ってて綺麗だった。きらきら,明るい。
少し欠けた月の左下に,でっかい星が一つ見えた。まるで月の涙。



「・・・幸せに,なれ」


俯いていたクリフトが顔を上げた。

「なぁ,クリフト,絶対に幸せになれよな!
 後から後悔するようなことだけは・・・するなよ?」

逆光で俺の顔が向こうから見えないことを祈った。
結局,自分の本心をさらけ出すしかなかった。
俺も,恋したこと,あるから。んで,いっぱい後から,後悔したから。
幸せになって欲しい。幸せにならないといけない。おまえとアリーナ。



「ありがとう」

素の声だった。

「えぇ。必ず,幸せに。
 だからもう少し,あがいてみます」

素の顔。


「・・・おぅ」


悪くない。
アリーナに見せてやりたい。
・・・シンシア,やっぱお前,2番目でいい?

机の上に置いてあったスケッチブックとパステルを持って,自分のベッドに腰掛ける。
表紙をめくった。真っ白な紙が青く光って見えた。


「ノイエ・・・?」
「あーいいからそのまま横になって寝てくれ」
「絵を,描くんですか?私を?どうして」
「まぁな。どうせみんな順番に描いてくから。ちょっと練習,練習。
 俺酔っ払ってるから,上手くかけないかも。だからむしろ寝てくれたほうがいいや,へへっ。おやすみ」
「え,ええ・・・お休みなさい」


横になって目を閉じた。素直な奴。


ランプの灯を消したら,部屋中,月明かりに満たされた。
パステルのケースから,一番濃い青を手に取る。下書きなしで一気に描き出す。
全部青で描こう。アリーナがずっと見てた何色かの青で描こう。
この顔描き終わったら,あの鮮やかな笑顔も描いて。んで,明日アリーナに渡そう。
そのくらいのお節介は,いいだろ?





磨りガラスだと思っていたら,ただの曇ったガラスだったことに気が付いたんだ,クリフトは。
何でもかんでも綺麗にぼやけてたのに,試しに拭いてみたら,いろいろ見えちまった。
綺麗なものも,そうじゃないものも。
でも恋なんて,そんなもんなのかもしれない。



描きあがる頃にはもう,クリフトはすっかり眠ってしまっていた。袖,冷たくないか?
意外と穏やかな寝顔。
寝てるときの夢と,起きてるときの夢,どっちが辛い?



窓の外を見た。クリフトの変わりに涙を流す月は,やっぱり綺麗だった。



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小さな後書き

もがくクリフトも背伸びするアリーナも痛いですが,
実は一番痛いのはノイエなのかもしれません。
ともあれ,クリフトの葛藤はまだまだ始まったばかりです。

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