走り出したノイエの背中を追いながらも,アリーナの頭の中はもう,ぐちゃぐちゃだった。


――クリフトの色を使った,クリフトの絵。
確かに欲しいと思った。悔しいけどノイエの言うとおり。
わたしから逃げたり,離れたり,一人で先に行ったりしないもの,絵は。
・・・離れる?先に行く?
あの人が私を置いていくわけないのに?


お世辞ほどの灯りがともる街灯が,アリーナの左右を流れていく。知らない街。知らない道。


・・・ううん,やっぱり置いていく。離れはしないけど置いていかれる。
勝手に,クリフトばかり大人になっていく。
追いつきたい。追いつかなきゃ。
背伸び,しなきゃ。
でも,どうやって?



「あれ・・・?」

教会の少し手前で,ノイエが不意に立ち止まる。扉から出てくる二つの影に気がついたのだ。
そして追いついたアリーナも。

「あ,誰か出てきたね」
「でもクリフトとトルネコじゃなさそうだな」
「うん。片方は女の人,かしら?」


二人組が街灯の真下を通ったときに,ようやくその姿がはっきりと見えた。
小さいほうの影はやはり女性。男性に手をひかれて,夜道をゆっくりと歩いている。
今この瞬間だけ街頭が明るさを増した気がした。
女性は,シスターの服装をしていた。
アリーナはひゅっと息を吸い込んで,そのまま固まった。


ノイエはしめたとばかりにシスターに声をかける。

「すみません」
「はい?」
「教会の,シスターですよね?・・・ああやっぱり。
 えっと,いろいろどっしりしたおじさんと,ほわわっと笑う神官はまだ中にいましたか?」



めずらしいノイエの丁寧語も,また妙に的確な例えも,アリーナの耳には届いていなかった。
頭がくらくらする。二人に釘付けになったまま目をそらせない。声が出せない。


「・・・おいアリーナ。おーい!」

ノイエに名を呼ばれて我に返った。

「・・・・・・ん?あ・・・うん」
「クリフトはまだ教会にいるってさ。トルネコはもういっちまったらしい」
「そうなんだ」

シスターがこちらを見てぺこりと頭を下げたので,アリーナも慌てて軽く会釈した。
笑顔を用意してから,思い切って聞いてみる。

「失礼ですが,ご夫婦ですか?」
「ええ。ひと月ほど前に結婚しました」
「ぉお新婚さんだ!おめでとうございます!!」

ノイエの大きな祝福の声に,夫婦はそろって礼を言った。
夫が照れながら,

「彼女が,結婚してもシスターを続けたいと言うので,帰りはこうして教会まで迎えに言っているんです。
 いや,家はすぐそこなんですがどうにも心配で」

と言って鼻の頭を掻いた。
寄り添う妻はこの世で一番の幸せ者だと言わんばかりの顔。

「そういえば先ほど,神官様にも祝福の言葉を頂きました」
「えっ・・・そう,なんですか?」
「はい。ありがたいことです。神に仕えるものとして,またこの人の妻として,精一杯日々を生きようと,新たに心に誓うことができました」


手を組んで目を閉じるその姿はまさに,『神に仕えるもの』に相応しかった。
アリーナはまた声が出なくなった。それに気がついて,ノイエが再び大きな声を出す。

「二人ともお幸せに!」
「ありがとうございます。それでは・・・」






夫婦の背中が闇の中に完全に消えても,アリーナはずっと,動けないままだった。
ノイエはちょっと気まずそうに,でも何も言わずに。ただ,待っていた。

音のない風が吹いてきて,街灯の灯りをかすかに揺らした。


――結婚,か・・・


サランの夜。クリフトはあの時,『欲張らせてください』と言った。
王の補佐でも司祭長でもない,別の権利。誰よりもアリーナの傍にいられる権利がほしい,と。
確かに,そう言ったのだ。



――あれは,そういう意味だったんだよね?わたしの勘違いじゃ,ないよね。
じゃあどうして,触れてくれないの。あの時みたいにいっぱいキスしてくれないの。
なんで,戸惑ってるの?困ったときに見せる笑顔になるの。眉毛が下がるからすぐに分かるよ。

わたしがなんだか,変な,せい,かな。
それとも・・・クリフトが神官だから,なの?



「神に仕える身,だからって」

遠くを見たままアリーナは囁いた。

「そんな堅いことばかり,言って,いられないよね。
 クリフトもあんな風に,もう少し頭が柔らかければ・・・いいのに」


背後でノイエが小さく,えっ・・・と声を出したが,アリーナは振り返らずに天を仰ぎ見た。
暗い夜の空もまた,クリフトの青だった。
痛いほど真っ直ぐで激しかった,あの告白。星明りの下の,あの瞳。



――もう一度あの色が見たいのに,見せてくれない。
前みたいに,なにかを恐れている感じは,全然しないのに。
どうして二人っきりの夜でも,そんな風に笑えるの?
わたしは必死なのよ。わたしには,無理だよ。



「・・・う」
「・・・・・・ん?」

思わずもれたアリーナの声に,遅すぎず,早すぎず,絶妙の間でノイエは相づちを打った。

「ううん。なんでもない。ごめんねノイエ」
「なにが?」
「なんかわたし,変なの。今言ったこと・・・誰にも,言わないで」
「・・・おぅ」

にかっと笑ったノイエの夜目にも白い歯が,アリーナの目には痛かった。


「・・・わたし,ここで待ってるね」
「へ?
 待ってる,って?・・・ここでか??」
「うん」
「教会,目の前じゃん」
「でも・・・やっぱりわたし,なんかおかしいから。ノイエ,迎えにいってあげて。
 大丈夫,ちゃんとここにいるから。二人が来るまでに,いつも通りになっておくから」
「・・・そっか。じゃあ,クリフトつれてすぐ戻ってくるからな」






ノイエは教会の扉をそぉっと開けて中を覗き込んだ。薄暗い。
祭壇の燭台の火は今にも消えそうだった。その横にクリフトが立っていた。神父の姿はない。
たゆたう弱い光のせいなのか,燭台の上の短いろうそく以上に,クリフトのその背中は儚げに見えた。


「よっ。神官さま」
「・・・ノイエ」
「迎えにきてやったぜ!
 ・・・うんやっぱり,お前教会にいるとなんかサマになるよな。
 だからって『我が教会に10ゴールドの寄付を』とか,言わないでくれよ」

それを聞いてクリフトはほんの少しだけ,笑った。
ノイエも祭壇のすぐ傍まで寄った。

「本物の神父様はついさきほど,鐘を鳴らしに行かれました」

よほど大きな街以外は,教会の鐘が,時刻を知らせる鐘としても使われていた。
さらに,小さな街ではそれを鳴らす役目も,教会の神父が担っていた。



「トルネコはもう出てったんだろ?」
「どうしてそれを」
「途中ですれ違ったシスターに聞いた」
「そうでしたか・・・」

炎がぐらりと揺れた。同じように揺れる青い目。


「なぁ」
「・・・はい」
「俺,山育ちで世間知らずだから,実は知らなかったんだけどさ。
 神父やシスターって,普通に結婚できるんだな」
「ええ,そうですよ」
「神官も?」
「・・・」

とっさになにか言ったクリフトの声は,同時に鳴り響いた大音量の鐘の音のせいでノイエに届かなかった。


建物が,空気が,身体が,心がびりびりする。
力強く,潔く,清く美しく。
どこか居心地が悪く感じてしまうほど,半ば強引なまでの神聖さで押し迫ってきた。
気がつけば二人とも,祭壇上の十字架を見上げていた。





長い長い残響が消える頃。ようやくクリフトは,再び口を開いた。

「神官も,結婚できます。
 神は・・・それが例え,神に仕える身のものであっても。
 愛し合う者たちを,祝福,します」


その声はいつもにも増して透明で,なのにやはり確実に,暖かくて柔らかい。
鐘の音なんかよりもよっぽどみんな癒されるんじゃないかと,ノイエは思った。

クリフトは胸に手を当てて,服の上からロザリオを掴んだ。



「私も。いつかは。・・・愛する人と」



目を閉じて,小さな声で。照れもせずに。
祈りとは違う。ただの望みでもない。
証拠に,ゆっくりと開いた目は,強さを宿した夜空の青に変わっていた。不意に戻ってきた確かな存在感。

目が会うと,クリフトは鮮やかに笑った。
ほわわっと,ではなかった。眉も下げなかった。


アリーナがこの場にいないことを,ノイエは悔やんだ。



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小さな後書き

アリーナ,さらに混乱中。
クリフトの強すぎるほどの想いと決意は,正しくアリーナに届くのでしょうか。

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