それぞれお茶の入ったカップを持った男たちは,思い思いの姿で甲板に座った。
膨らみ始めた月が暗い空にぽかりと浮いていた。静かな夜だった。



「私がまだ9つの時の話だ。その日は,城下町で春祭りが行われていた。
 いつも城に缶詰の私を気の毒がった若い兵士が,外へ連れ出してくれたのだよ」
「祭りかぁ。・・・いいな」

ノイエは相槌を打つと,胡坐をかいた自分の足首を両手でつかんで,身体を左右に揺らした。
その横で正座しているクリフトは,お茶をこくりと飲んでから頷く。


「街は熱気に溢れていた。大通りにはさまざまな屋台がならび,ものすごい人通りだった。
 私は迂闊にも,人ごみの中でその兵士とはぐれてしまったのだ」



ライアンはゆっくりと,落ち着いた低音の声で,その日の出来事を語り始めた・・・。








「しまった」


ライアンは焦っていた。
完全にはぐれた。どんなに辺りを見回しても,茶褐色のマントを纏ったジョージの姿は見つからない。
遠くまで見渡したくても,さすがに無理だった。ライアンは年齢にしては背が高いほうだったが,大人にはまだ到底かなわない。

軽業師のナイフ投げに見とれてしまったのがいけなかった。
頭や肩の上に乗せられたりんごに次々と命中するナイフ。拍手と派手な指笛。
雰囲気に飲まれて思わず立ち止まってしまった。
でもよく考えたら,城の軽装歩兵だってあのくらいの芸当はできるんじゃないか?


「・・・もどろう」


この賑わいの中じゃ,探してもまず出会えない。
城に戻ろう。ジョージだっていずれ戻ってくるだろう。ライアンはそう決めて,バトランド城へと続く通りへ出るために一旦細い路地へ入った。
一気に人の気配が途絶える。この辺りの住人たちも皆,祭りに繰り出しているのだろう。
日の射さない湿った路地には,大通りから届くざわめきと調子っぱずれのフィドルの音が響いていて,
それなりにうるさいはずなのに何故か静かに感じた。

唇を引き結ぶと,ライアンは顔を上げて歩き出した。
祭りにそぐわない,背中に背負った剣がやけに重かった。




祭りなんて別に,そんなに見たかったわけじゃないんだ。
ただ,ジョージが一緒に行こうと言ってくれたから。
城で剣を振るだけの毎日。でも,そんなに嫌じゃない。
・・・好きというわけでもないけど。

戦士の息子だから,戦士になる。
剣の練習さえしていれば,食いっぱぐれることはない。
それに,戦士になればおばさんたちもきっと喜んでくれる。



茶色の髪は父譲り,灰色の瞳は母譲りだと,城の皆によく言われた。
戦士だった父,台所の賄いだった母。どちらの顔も,ライアンは覚えていなかった。
両親が立て続けに亡くなったとき,彼はまだ2つだったのだから無理もない。
天涯孤独となってしまったライアンを,賄いの女性たちは全員で育ててくれた。
そして6つになったとき,正式に兵士見習いとして入隊した。


それから3年。自分はただ3つ歳をとって,9つになっただけだ。





あと少しで城の前の通りに出る。少し足を速めた,そんな時。

正面から,小さな女の子が走ってきた。自分よりも幼い。まだ5つか6つくらいだろう。
小さな歩幅で一生懸命に,左右に編んだ三つ編みを揺らしながら走っている。
息も上がっているし表情も苦しそうだ。それでも止まらずに走り続ける。



「あっ」


  ぽて。


「うわっ!だ・・・大丈夫?」

目の前で転んだその女の子を,ライアンは手を貸して助け起こした。

「あ,りがと・・・」

女の子は恥ずかしそうに小さな声でお礼を言って,オレンジ色のエプロンドレスの前をぱんぱんと払った。
茶色の髪に灰色の目の子だ。ありふれているとはいえ,自分と同じ色の組み合わせにライアンは親しみを感じた。

できるだけ優しい声が出るように細心の注意を払って,尋ねてみる。

「君も,大人とはぐれてしまったの?」
「ううん,ちがうの。ひとりで出てきたの」
「え?」


こんなに小さな子が,祭りの混雑の中,一人で?


「お父さんかお母さんは一緒じゃなかったのかい」
「とうさんはお仕事でいないの。かあさんは,今たいへんなの。
 だからね,ケイティは,お手伝いしようと思ったの」
「お手伝い?
 ・・・よかったら,聞かせてくれるかな。手助けができるかもしれない」


ケイティ,と名乗った少女は,こくりと頷き,たどたどしく話し出した。




ケイティは,裏通りにある小さな薬草屋の娘だった。
父は仕入れのため数日前から家を空けているらしい。
母は,なんと今まさに産気づいているというのだ。すでに産婆が傍についてはいるらしい。

苦しむ母を少しでも楽にしてあげたい。その一心で,ケイティは痛みに効く薬草を取りに行こうとしたのだ。
城下町の南の原に,その薬草は生えているらしい。以前,父とともに摘みに行ったことがあるそうだ。



「かあさんね,痛そうなの。あせ,びっしょりなの。
 おにいちゃん・・・ケイティといっしょに薬草,とりにいってくれる?」

ライアンはとっさに返事ができなかった。
出産の痛みや苦しみは,薬草で取り払えるものなんだろうか。
もしそうだとしても,薬草屋に戻れば,効果のある薬草が商品としておいてあるのではないか。
このままこの子を家に帰したほうが,母親も安心するんじゃ・・・。



目が,合った。強い目。



「おねがい,おにいちゃん」
「・・・わかった。一緒に行こう」



そんな目のできるケイティが少し羨ましかった。

今までこんな目をした覚えがない自分が,少し嫌になった。






来た道を引き返し,大通りの人込みを手をつないだまま掻き分けながらなんとか横断して,二人はようやく街の外へと出た。

「すごいひとだったねぇ」
「そうだね。はぐれなくてよかった」

ライアンは額に浮かんだ汗を袖でぬぐった。
土の匂いのする春の風が,少年の短い髪と少女の三つ編みを揺らす。
並んで歩く姿はその髪の色も相まって,まるで兄妹のようだった。


幼い子供二人だけで街の外に出るなど,普通ではあり得ないこと。
門のところで止められても,おかしくはなかった。
しかし,門番は気にも留めなかったようだ。祭りの熱気に浮かれて注意力散漫になっていたのか。
ついてる,とライアンは思った。同時に,城にばれたら厳罰ものだとも思った。門番も,自分も。



ケイティはずっとしゃべり続けた。
自分のこと,両親のこと,友達のこと,そして生まれようとしている弟か妹のこと。
本当はあと半月ほど後に生まれる予定だったらしい。本来なら父も傍についているはずだったのだ。

「一人で,産婆さんを呼びに行ったんだ。えらかったね,ケイティ」

ライアンがそう言うと,うれしそうにケイティは笑った。
家族を守りたいと思う気持ち。肉親のいない自分にも,それは分かる。理屈としては。
でも実際に,賄いのおばさんのうち誰かが倒れても,僕はここまで無茶をするだろうか。
今のケイティのように,強い決意を持って行動したことなど,たぶん自分には一度も・・・ない。






「あ!あった,あれ,あの草だよおにいちゃん」

草原と森との境目に,その薬草は生えていた。
遠目にもよく分かるほど,ほかの草とは違う特徴のある葉をしていた。あれなら見分けるのは簡単だ。

「よし,じゃあ急いで摘んでしまおう」
「うん!」

小さな籐製のかごを手にしたケイティは,薬草の元へと走り出した。ライアンも後を追う。
その時だった。


森の奥から飛び出してきた黒い影が,ケイティに向かって飛んできた。


「危ない!!!」
「きゃっ!」


 がちゃっ。

ケイティがいた場所を,不気味な音を立てながら影が通過した。
間一髪だった。ライアンが突き飛ばしていなければ,ケイティの頭はざっくり切られていただろう。
着陸したその影は,くわがたの形をしていた。ただし昆虫としての常識をはるかに超える大きさ。


「はさみくわがた・・・!」


魔物の一種だった。
怯えるケイティを左手で庇いながら,ライアンは背中の剣を抜いた。
手が震える。腕にいらない力が入る。
落ち着け。落ち着け。練習を思い出せ。
心の中で繰り返す。だが震えは納まるどころかどんどんひどくなる。



なんでだ。くる日もくる日もひたすら重ねた特訓はなんだったんだ。実戦っていうだけで,こんな・・・。
助けは呼べない。
・・・死ぬかもしれない。



 がちゃ。がちゃ。


飛べるくせに,ゆっくり歩いて近づいてくるのは,怯えるこちらの様子を見て楽しんでいるのだろうか。
嫌な汗がこめかみを伝った。口の中が乾いた。


「おにい,ちゃん・・・」

左手をきゅっと握る小さな手の暖かさにライアンはどきりとした。




・・・今この子は,僕に頼るしかない。
僕が諦めたらケイティの命はどうなる?
僕が守りきるしか,ないんだ。




「おおおぉぉっ!!!」

自分自身に向かってライアンは吼えた。震えたくても震えられないほどに,柄を握る手に力を入れた。
気合に押されてはさみくわがたがわずかに後ずさりした。


巨大なくわがた。空を飛んでこちらの頭部を狙う,凶暴な奴ら。
以前,戦士から聞いた戦い方を思い出す。


「ケイティ,動いちゃだめだ。いいね」
「う,うん・・・っ」


やつらは動くものを見境なく襲う性質がある。
逆に言えば,動かないものには襲ってこない。
まずは,動くな。

ライアンとケイティがじっとすると,はさみくわがたもその場から動かなくなった。
がちゃ,がちゃ,と,頭部のはさみだけを焦れたように何度も合わせる。




ライアンは静かに息を吸った。
吐いた。
吸って止めて,そして剣を真上に一気に振り上げた。


 ブーーーン!!!


きたっ!



「やぁああっ!!」


剣の動きにつられて真正面に飛んできたはさみくわがたを,気合一閃,一刀両断にした。
真っ二つに割れてライアンの両側に落ちた。
それでもまだびくびくと動き続ける。ライアンはひたすら剣で突いた。突き続けた。
動かなくなってもしばらく,やめることができなかった。



「はぁ,はっ・・・は」

息も切れて。腕が上がらなくなって。
ようやく手を止めた。後ろを振り返った。
ケイティがじっとこちらを見つめていた。目にいっぱいの涙がたまっていた。
かごを放り出して抱きついてきた。ちゃんと暖かかった。



あぁ,守りきれたんだ。
そう思った。



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小さな後書き

ライアンの初実戦は,他人を守ることに使われました。

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