子供の頃の夢を見た。
見張塔の一番上まで,どちらが早く辿り着けるか姫様と競争したときの夢。


走る。走る。螺旋階段を駆け上る。
苦しい。息が続かない。わき腹が痛い。
姫様の背中が離れていく。螺旋の渦の先に吸い込まれてしまう。もう見えない。
視界に入るのは灰色の濃淡だけだった。左も右も足元もすべて,冷たそうな石。
悔しさと情けなさとで泣きそうになりながら,それでも足は止めなかった。
上へ上へ,その先へ。


永遠に続くのかと思えた階段は突然終わった。踏み出した足を乗せるはずの高さに,石はなかった。
そのまま前につんのめる。倒れるはずだった自分を横から引っ張って支えてくれたのは,見張り役の兵士だった。

わたしの勝ちねと満面の笑みを浮かべる幼い姫様。
その後ろに広がる,緑織り成すサントハイムの大地。

光に溢れた世界の中,ひときわ輝く亜麻色の髪と赤い瞳の確かさが,今でも忘れられない。








音は聞こえているのに身体が動かない。目も開けられない。日に何度か,そういう時間があった。
そっとドアを開け閉めする小さな音や,喉が渇いたという感覚。そういうちょっとしたことがきっかけで,耳だけが覚醒する。


よく知った呪文が聞こえる。ただし初めて聞く声だった。
身体が魔法力に包まれたのが分かった。胸のあたりにずしりと溜まっていた何かが,僅かだが減ってくれた。けれどもやはり動くことはできない。



「…キアリー,かけました」
「すまぬ。少し顔色が戻った気がするわい」

静かで落ち着いた女声と,ブライ様。
解毒呪文が使える人を探してきてくださったのだろうか。


「目,覚まさないかしらね」

キアリーをかけてくれた女性のものとよく似た,少し艶のある声。


「無理に起こさないほうがいいでしょうしねぇ…」

おだやかで低い,どこか安心する男声。


「俺もキアリーかホイミかけようか? なぁこの兄ちゃん,いつからこんな状態なんだ…?」

若い,おそらく自分と同世代の男性の声。


「倒れてからは,二日じゃ。
 だがその十日も前から毒に蝕まれておった」
「じゃあもう,十二日も…」


ブライ様が私の症状を説明されている。姫様がソレッタへパデキアを探しに行かれているということも。
自分の身体が動かないことが悔しい。聴覚だけはこんなにも研ぎ澄まされているのに,何故なんだろう。


「そしたら俺たちもソレッタに行こうぜ!んで,その薬を探そう!
 だってこの兄ちゃん,ほっといたら死んじまうんだろ?
 俺そんなのやだよ!人が死ぬのはもう…!!」

落ち着きなさいと艶やかな声が降る。

「あたしたちは,そのお姫さまの顔も知らないのよ」
「でもっ」
「別に,行かないって言ってるわけじゃない。ちゃんと準備してからにしましょ,ってこと」
「…おう!!そしたら,んんー…。
 じいさん。…えっと」
「ブライじゃ」
「ブライ。一緒に来てくれ。そしたら姫さんの顔も分かる」
「しかしそれでは,こやつめが…」「私が」


髪がさらさらと音を立てたのが分かった。髪の長い女性なのだろう。


「残ります。そういうことよね?」
「おぅ。頼んだ」
「あぁなるほどねえ」
「確かにミネアさんなら,ホイミもキアリーも使えますしね」
「そうそう。俺も一応回復も解毒もできるけど,ミネアほど上手じゃないし。
 それに看病なんて,多分俺にはうまくできないからさ」
「任せて。みんなが帰ってくるまで,必ず,」

もたせてみせます。
静かな,けれど強い声で,女性はそう言った。


今更ながらショックを受けた。
自分の身体はもうそこまで毒に蝕まれているのか?
大丈夫です,ちゃんと聞こえています,意識はあるんです。声が出せるならそう叫びたい。
動かしたい。足の先でも,手指の一本でも。せめて目蓋だけでも!



「がんばれ」


左の首筋に温かさを感じて,手のひらが添えられたのだと気がついた。
触れられた部分から魔法の気配が流れてきて,身体中に染み込む。
これはベホイミ。力強く優しい,特徴のある魔法力の持ち主だ。


「なぁ,必ず薬持って帰るから。あと,姫さんも連れて帰ってくる。
 死ぬなよ。死ぬな。待ってろ!絶対に!!」





ありがとう。
必ず,生きています。


声にはならなかったが,ほんの少しだけ,唇の端を動かせたような気がした。


意識が遠のく。夢の世界へ吸い込まれていく。
灰色の塔の入口で,幼い姫様がまた私を呼んでいる。

大丈夫だ。この輝きさえ見失わなければ,絶対に。




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小さな後書き

クリフトはきっと,意志の強さは誰にも負けないのではないかと思うのです。
5話は再びアリーナのパートです。

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