アリーナは,クリフトの部屋の扉をノックした。
『はい』
返って来るはずのないその声を,頭の中で作り上げてしまっていることに,アリーナは気が付いた。
そのうちに,扉がゆっくりと開いた。すでに寝間着に着替えたクリフトが姿を見せる。
「あ,ごめんね。もう寝るところだった?」
彼は首を振り,そして微笑んだ。扉を大きく開けてアリーナを迎え入れる。
ランプの明かりは細く絞られていた。めずらしく本を読んでいなかったらしい。
部屋の中にはいつものように,薬草の匂いとインクの匂いがうっすらと漂っていた。
後ろ手に扉を閉めてから,アリーナは右手に持っていたポットを掲げて,いたずらっぽく肩をすくめてみせた。
「・・・お湯,持参で来ちゃった」
クリフトはゆっくりと目を細める。
彼はアリーナからポットを受け取ってテーブルに置くと,小さな戸棚からティーカップを2つ取り出して並べた。
同じく戸棚にずらりと並んでいるティーキャディーの中から,しばらく迷った後,ひとつを選び出した。
普段とまったく同じ手際のよさで,彼はお茶を入れ終えた。
椅子に座っているアリーナにカップを差し出し,その向かいに腰を下ろす。
その手元にはすでに,ノートとペンが用意されていた。
アリーナは話をした。
今日起こった,ちょっとした出来事。それから,ふと思いついたこと。
いつもと同じように。
・・・いつもと違うところがひとつも出ないように,なるべく自然に。
クリフトは相槌を打つ代わりにこまめに頷き,そしてときどき,ノートに短い文を綴った。
アリーナはそれを読みながら,不思議な感覚を味わっていた。
「・・・声,聞こえる」
クリフトは少しだけ,首をかしげた。
「文字を読むのと同時にね,クリフトの声が,ちゃんと聞こえる」
アリーナはカップを置いてから手を伸ばすと,書かれた文字をゆっくりとなぞった。
『それでは今度エンドールに行くことがあれば,また買ってきておきますね?このお茶』
『いつもの倍は,すごいですね。だからノイエはひっくり返っていたんですね』
『では明日の朝は,久々にオムレツにしましょうか?』
どの文からも,クリフトの声が聞こえてくる。
聞こえないはずのない声。だが,確かにアリーナには聞こえた。ドアをノックしたあとの返事と同じように。
いつもと同じ,柔らかで静かな声が。
これもきっと,言葉の力。正のほうの力。
「あのね」
クリフトの瞳を,真っ直ぐに見つめる。
「最初は,謝ろうと思ってた。『ごめんなさい,わたしのせいで』・・・って。
でも,やめたの」
ノイエと話をして,アリーナは気がついたのだ。謝罪の言葉より,もっと他に伝えたい言葉があることを。
アリーナは席を立った。クリフトも腰を上げる。
そのままアリーナは彼の傍に寄ると,その身体に腕を回して抱きしめた。
「ありがとう,クリフト。
わたしを守ってくれて,ありがとう」
禁呪を使ってまで自分を救ってくれた,その強い意思と想いに,アリーナは感謝した。
クリフトの表情が変わる。
ゆっくりと,抱きしめ返される。
言葉にならない安堵感で満たされて,アリーナは思わずため息をついた。
つい先ほどまで,不安にさいなまれていた。
普段は吐かない弱音を,つい,ノイエに吐いてしまった。
しかし,ノイエはそれを受け止め,彼の強さを上乗せして,アリーナに返してくれた。
そして今,こうしてクリフトの腕に包まれていると,無条件で心が落ち着いていく。
自分が,自分に,戻れる気がした。
依存でも,束縛でもない。
支えあい,守りあい,励ましあって,お互いを高めていく。
三人でそんな関係を築けたことに,アリーナは言い表せないほどの喜びを感じた。
アリーナはクリフトの背中に回していた腕を僅かに下げた。
右肘の内側の部分が,クリフトの左の脇腹に触れる。
この場所にあるはずの傷痕を思いながら,彼女は,目を閉じた。
・・・自分も,クリフトを守る。
事態は何も変わらないまま,数日が過ぎた。
クリフトの声は,まだ戻っていなかった。
ノイエがかなりの疲労を溜め込んでいることは,誰もが気付いていた。
トヘロス自体はさほど消耗する魔法ではない。しかし,その効果を絶やさないようにしなければならないとなると,訳が違う。
必然的に眠りは浅くなった。何度も夜中に目が覚める。そのたびに彼は,魔法の気配を確認せずにはいられなかった。
普段の旺盛な食欲も,なりを潜めた。
それでも人前では笑顔を忘れない彼のことを思い,皆はあくまでも,いつも通りを貫いた。
アリーナも,日課になっているノイエとのモップ掛け競争をやめなかった。
そしてクリフト自身も,いつものように皆の食事を作り,お茶を淹れ,医学書を読み,寝る前にアリーナの話を聞いた。
・・・異変は,四日目に起こった。
それは,昼食時のことだった。
その日の夕方には,船は目的の大陸に到着する予定だった。
そろそろ効果の切れそうなトヘロスを唱え直すために,ノイエは甲板に出てそのタイミングを計っていた。
完全に魔法の気配がなくなってからでないと,唱え直しても意味がない。
だんだんと弱まっていく聖なる力が失せる瞬間を逃さないように,彼はまっすぐに背筋を伸ばしたまま,辺りに意識を張り巡らせていた。
さすがに今は,モップ掛け競争には誘えない。
アリーナは少し離れたところに座り,その様子をじっと見ていた。
クリフトが甲板に上がってきたのは,そんなときだった。
「あ,クリフト,もしかしてお昼ご飯できた?」
小さな声で確認するアリーナに,クリフトは頷く。
ノイエの様子に気が付いて,彼もアリーナの横に腰を下ろした。
「・・・もうちょっとらしいわ」
クリフトは再び頷いた。それから,一段高い位置で舵を握っているトルネコを見上げて,手を振った。
言葉はなくとも,食事の用意ができたというのはそれだけで伝わる。
トルネコは手を振り返してそれに答えると,碇を下ろす準備を始めた。
船の動きが完全に止まった頃。ノイエの目が,ふっと鋭くなった。
「・・・・・・よし,切れた」
彼は即座に呪文の詠唱に入った。
トヘロスは持続時間が長い分,詠唱もかなり長い。アリーナとクリフトは息を殺して,ノイエを見守っていた。
ノイエの全身から,淡い光が立ち上る。それはゆっくりと広がり,船全体を覆う・・・はずだった。
「例の魔物が近づいてます!!西側から!四匹もいますよっ!!!」
トルネコの大声が甲板に響き渡った。
もっとも素早く反応したのはアリーナだった。船内へ続く扉を開け,「みんな敵よ!!」と叫ぶ。
両耳のキラーピアスを外してノイエの元に走った。クリフトも剣を抜いて後に続く。
詠唱中の無防備なノイエを守るため,アリーナがその左に,クリフトが背中にまわる。
ノイエは詠唱を止めなかった。
魔物たちの到着よりも魔法の発動のほうが早ければ,戦わずに済む。
もう少し,もう少しで呪文は完成するのだ。
少しでも早く。でも焦るな,落ち着け。
彼は心の中でそう繰り返す。
船内からマーニャとミネアが,ライアンが,ブライが飛び出してきた。
それぞれに武器を構え,魔法の準備をして敵の襲来に備える。
トヘロスの詠唱が最後の一節に達したとき,船のすぐ脇に水柱が上がった。
あの時と同じ。ただし今回は,その数が四つ。
漂っていた光の粒は,一瞬だけ強く輝いたのち,一気に消滅した。
呪文は,間に合わなかったのだ。
「・・・くっ・・・そおぉっ!!!」
やり場のない悔しさと自分自身に対する憤りに声を上げながら,ノイエは腰の剣を抜いた。
第2話へ戻る 第4話へ進む
小さな後書き
厳しい戦いです。みんな,がんばれ。
ノベルに戻る
トップ画面に戻る
|