タオルと着替えを持って,ノイエと共に部屋を出た。
陽は随分前に落ちていて,廊下は暗い。吹き抜けから漏れる一階の食堂の灯りだけが頼りだ。

「温泉,久々だなー」
「えぇ」

今日すでに何度か繰り返したやり取りだった。

食堂の脇,宿の受付近くのソファーに,ライアンさんが座っている。
本を読んでいた。めずらしい。

「ライアンさん」
「・・・ああ。先に行ってきてくれ。私は後から行く」
「ブライとトルネコもまだか?」
「部屋で休憩中だ。食後すぐに風呂というのは,なかなかな」
「そんなもんかなぁ?」
「ノイエ殿もあと二十年ほどすると分かるだろう」

僅かに笑うライアンさん。でもまたすぐに,本に目を戻した。
兵法を記した書。平和になるほどかえって必要になると,以前に言ってらした気がする。


「では,お先に」
「行ってくるな!」
「あぁ」






ライアンさんの言ったとおりだ。食事の後は休憩する人が多いらしい。確かに,消化のためにもそのほうがいい。
温泉は思っていたよりも随分空いていた。おかげで手足をゆっくり伸ばせる。
胸まで浸かり終えたとき,思わずため息が漏れた。力が抜ける。疲れが湯に溶け込んでいくのが分かる。
自分で思っていた以上に疲労が溜まっていたらしい。ゴットサイドの祭壇に開いた穴に飛び込んでからの数日間で,何度呪文を唱えたんだろう。


「ふえぇ〜」

自分のななめ前で,口元ぎりぎりまで湯に沈み込んだノイエ。

「髪がお湯に浸かってますよ?」
「あ・・・わりぃ,忘れてた」

左手首に巻いたままだった紐で髪をまとめる。いつもはちゃんとくくってから湯に浸かるのに。

少し強めの風が来て,立ち込めていた湯煙を掃っていった。首元が少し寒い。
ノイエが首をめぐらせて,こちらを見た。

「・・・なぁ」
「はい」
「クリフト今日一日で,何回くらい呪文唱えた?」
「・・・・・・」
「おい?」
「・・・あ,ごめんなさい。ちょうど同じようなことを考えていたから,びっくりしたんです」
「ぅはは」

笑いながらまた前を向き,再び口元まで潜る。


「・・・百,は超えてないと思うんですけど」
「でもそれに近い?」
「多分」
「そっか」

確かに疲労は激しい。
けれど以前はこんな回数,唱えること自体が無理だった。


「やっぱり上がってるんだな。魔法力」
「ノイエも」
「・・・かな?」
「えぇ」

電撃魔法の威力が今までの比ではない。それに。

「あの,剣に雷を落とす魔法・・・」
「おぅ,あれな。たまたまだけど」


ノイエは右手でしか魔法が使えない。
どんなに必死になって練習を重ねても,左手で魔法を操ることはできなかった。
だから戦いのさなかに呪文を唱えるときは,攻撃魔法にせよ回復魔法にせよ,剣を左手に持ち替えて右手を空けていた。


「なんかいろいろ間に合わなくて,もう剣を持ち替える暇もなくて。
 うっかり右手に剣を持ったまま呪文唱えちまって,うわしまった!・・・と思ったんだけどさ。
 気がついたら,剣が雷を纏ってた。だからそのまま敵を切りにいってみただけ」

その威力は凄まじかった。いとも簡単に魔物が吹き飛んだ。


「攻撃だけじゃなくて,回復魔法も。以前よりも効果,上がってますよ」
「まじで?」
「はい。回復にかかる時間も短くなっています」
「そっか,うれしいな。
 ・・・ 強く,なったんだよな。俺たち。
 強くなってるよな。あのときよりもずっと」



    『新たな強さと僅かな弱さを手に入れることになるだろう』


竜の神の予言。
大切な人を守るための強さがほしかった。
だけどまさか,こんな形で『僅かな弱さ』を与えられるなんて。

誰だっていずれ,肉親や親しい友人を失う経験をする。
それは残念ながら,人として生きる限り避けられないことだし,どう足掻いても覆すことはできないこと。
覆らないことのはずなのに。



「今度は,失敗しない」


小声なのに強いノイエの声。
それで,分かってしまった。


蝶々結びがうまくできないせいなのか,単に結びが甘かったのか,髪をくくった紐が解けそうになっていた。
縛りなおそうと思って後ろから手を伸ばしたら,ノイエがふざけて湯の中に潜ろうとしたので少しだけ叱った。

「こら」
「へへ」

全然怖くない。そう言いながら,ノイエは湯から上がる。

「あっちぃ,なんかのぼせてきた。先に行ってるなー」
「えぇ・・・。私ももう少ししたら上がります」





絶対に守り抜くために,彼は少しでも可能性が高いほうの選択をするんだろう。
怖くない。
多分,私の注意に対して言ったんじゃない。

木の板で遮られた向こう側から,かすかに姫様の声が聞こえてきた。
私もノイエと同じ選択をする。姫様もブライ様も,皆さんも,きっと。


顔を上げた。湯煙でよく見えない空。
天空の城からも,きっとこちらは見えない。白く霞んだ夜空を少しだけ睨んだ。




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小さな後書き

弱さを強さに変える為には,こんなに心を痛めなければならないのでしょうか。

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