3.dogwood




用事が済んだ後,我が家に寄ってくれませんか?
トルネコのその申し出を,ノイエは笑いながら断った。

「大丈夫,俺はいつもの宿に泊まるから。
 せっかくなんだから,家族水入らずで過ごせよ。俺だってそのくらいは気を使うって!」







明日の朝迎えに行くことを約束して,ノイエは街の入口でトルネコと別れた。
宿を一部屋押さえて,わずかな荷物をベッドの上に置く。エンドールに滞在するときの定宿であるにも係わらず,一人きりの部屋は妙に広く感じられて,どうも落ち着かない。
足だけをはみ出させてベッドに仰向けに転がると,土色の天井をぼんやりと見た。



「・・・・・・大勢でいること,普通になっちまってたんだな・・・」



たった一人で,ブランカの宿に泊まった日のことを思い出す。
あのときの,言い表しようのない不安と焦燥感は忘れられない。
しかし,それをすっかり遠い日の事のように感じている自分に,ノイエは少なからず驚いていた。

寝転がったまま,横のスケッチブックの表紙に触れた。丈夫な厚紙のでこぼこした感触が,指先に伝わる。
荷物は必要最低限のものしか持ってこなかった。それでも,このスケッチブックとパステルだけは,迷うことなく袋に入れ,腕に抱えた。



クレヨン,水彩絵の具,パステル。ノイエが扱えるのは,子供の頃から慣れ親しんだこの3つと,木炭,そしてペン。
父が新しい画材を買ってきてくれたときは,夢中になってそれを使って描いた。
描けば描くほど,目に見えて上達していくことが,自分でもうれしかった。
絵,そして笛に関しては,それなりにプライドも持っていた。ゆえに,絵をプレゼントして喜んでもらえたり,曲を即興でアレンジするセンスを褒められたりするたびに,彼の心は喜びで満たされた。

天空人は芸術面に秀でている。遺跡として残る太古の建造物の壁画や,古い聖歌は,ほぼ全て天空人の手によるもの。
そう聞かされたときノイエは,自分の特技を根本から否定された気がした。絵も,笛も。

ノイエはそっと目を閉じた。父の薄茶の髪と母の黒髪が,瞼の内側に広がる。
絵の具で表わすならどの色を混ぜるだろう,と,無意識のうちに考えている自分に気付いた。
やんちゃ坊主の意外な才能を,両親はどんな思いで見ていたのだろうか。
それが息子に半分流れる血の副産物であることを,知っていたのだろうか。



目を開ける。次に見えたのは,いつも目で追っていた,あの長い髪。

身体を起こし,スケッチブックとパステルを手に取ると,ノイエは部屋を後にした。







宿を出る。酒場の呼び込みをうまくかわしながら,大通りを西に進む。
大都市エンドールは,この時間になっても人通りが途絶えない。街灯も一晩中点っていた。


トルネコの店の前で立ち止まり,明かりの漏れる二階の窓を見上げた。
カーテンに,大きな影と細い影,それから小さな影が,そろって映っていた。思わず口元が緩む。

「のんびり過ごしてくれよ」

小さく呟いて,ノイエは再び歩き出した。
目的の場所は,すぐそこだった。




交差する通りを境に,街路樹が変わる。槐の新緑は,角で途絶えた。
その先に目を向けた途端,飛び込んできた色彩。
ノイエは軽いめまいを覚えた。周囲の音がぷつりと止んだ気がした。





シンシアの色の花だった。

どの樹も樹冠いっぱいに,淡い紅色の花をつけていた。
街灯の明かりに照らされ,道に沿って,ふわり,ふわりと浮かび上がる,その情景。


ノイエはひときわ大きい樹の元へ,歩を進めた。
下から見上げる。視界が花で埋まる。


「この時期に,咲くんだな」


一年前。ブランカから海底を抜けるトンネルを経て,エンドールにたどり着いた,その日の夜。
この先いったいどうすればいいか分からず,ノイエは途方にくれていた。
そんなときに目にした,この樹。
花の色に思わず吸い寄せられた。
そしてその後,通りの向こうにいたミネアと,目が合ったのだった。

去年の暮れにエンドールを訪れたときに,この樹が花水木という名前であることを,クリフトから聞いた。
葉を全て落としたその樹は,枝にうっすらと雪を積もらせたまま,ただ静かに冬の寒さに耐えていた。


季節が巡り,樹は再び,春を謳歌している。
ノイエは,その背丈の割に細い幹に,左手を沿わせた。
温かな力を感じる。形のない,しかしそれでいて何よりも確かなもの。大切なもの。尊いもの。
それは,命。生きる力。



「俺,いっぱい笑えた。
 うれしいこと,楽しいこと,みんなと一緒に,すげぇたくさん感じてこれた」



かすかにほほえむ。
右手を自分の胸に置く。
頭のてっぺんを,こつんと樹にぶつけて俯く。



「・・・ありがとう」



彼はたった一粒だけ,涙を流した。








ノイエは,描く。
花の息吹を,一枚の紙に写し取る。
樹の根元に座り,上を見上げて。
レイクナバで見つけた,シンシアの色のパステルを使って。
道を行く人々が,通り掛かりにちらりと横からスケッチブックを覗いていく。皆一様に,軽く目を見張った。



もう少しで完成するというとき,一人の老人が,ノイエの傍にやってきた。
杖をついたまま,じっと絵を見る。ノイエは顔を上げると,笑顔で挨拶をした。


「こんばんは!」
「・・・おお,邪魔をしてすまんのう若いの。つい見入ってしもうてな」
「へへ,ありがと。爺さん,絵,好き?」
「ああ,好きじゃ」
「爺さんも描いてるのか」
「いやいや,わしは見るほう専門じゃよ。絵を集めておってな」

どうやら絵画の収集が趣味のようだ。資産家なのかもしれない。
飾り気のない,ごく普通の服装の老人だったので,ノイエはその意外さに驚いた。

「へえぇ,いっぱい絵,持ってるのか」
「まぁの。・・・じゃが,高いものばかりをこぞって集めるのは,わしは好かん」
「えっ」
「わしは,値段に関係なく,本当に良いものだけを傍に置いておきたい。
 だから若い絵描きたちの絵画展にも,頻繁に出向いておるのじゃが・・・。
 若いの,おぬしの絵は始めて見る気がするのう」
「ははっ,だって俺,ずっと趣味で描いてたから」
「なんと!」


予想以上の老人の大声に,ノイエはパステルを落としそうになった。


「おぬし,絵描きにならんか?絵画展に出してみる気はないか」
「あ,あぁ・・・。いずれ出してみよっかなって,ちょっと考えたことはあったけど」

絵描きになったらどうだと言われたのは,これが二回目だった。
一度目はブライに言われた。それもいいかな,とノイエは思った。
しかしその後,これも天空人の血のなせる業だと,彼は知ってしまった。そのため,それを自分の職業とすることに,どうしても抵抗を感じるようになってしまったのだった。

「おお。ぜひ,出展してほしいのう。その際はぜひ,わしに連絡をくれ」
「あ・・・ありがと。でも爺さん,どうしてそんなに・・・」
「その絵に,惚れたんじゃよ」



花水木の枝が,ざわざわと揺れた。



「若いの,おぬしの絵には,生命があるな」
「いのち・・・?」
「そう,生命じゃ。絵は技術だけでは駄目じゃ。
 そこまで心が入った絵を描ける者は,そうそうおらんよ」
「・・・・・・」


言葉にならない,ある種の感動に身を包まれ,ノイエは沈黙した。

絵に生命を与える力。それは彼が,故郷の村で育ち,この世界を旅をし,さまざまなものを見,多くの人と出会いながら育んだもの。
与えられた才能ではなく,あくまで,ノイエ自身の豊かな感性から生まれるものだった。


「・・・・・・うん。ありがと,爺さん」


ようやくそれだけを口にして,ノイエは笑った。







老人は,名前と自宅の場所をノイエに告げて,去っていった。
杖をつきながらゆっくりと通りを行くその背中は,やがて街灯の向こうに消えて見えなくなった。

ノイエは再び,目をスケッチブックに戻した。自分が描いた花水木を見つめた。


絵描きになろう。そう思った。
大好きな人たち。大切なもの。美しいと感じた風景。すべてを絵にしていきたい。
世界中を旅しよう。真っ白な紙に,その瞬間,瞬間を焼き付け,永遠にしていこう。
前からやってみたかった油彩にも挑戦してみよう。その時は,仲間達にもモデルになってもらおう。



一枚の花びらが,樹から旅立ち,風に乗った。
やがてそれはふわりと,スケッチブックの花の上に舞い降りる。
ノイエは愛おしそうに,右の指先でそっと触れた。


「・・・本物と間違えて,来てくれたのか?」




顔を上げて,天を見上げる。
薄紅色の花の向こうの夜空には,街灯の明るさにも負けない星々が,静かに輝いていた。



第2話「coppers」へ戻る 第4話「on the rocks」へ進む

小さな後書き

これからも彼は,絵描きとしての誇りを胸に,素晴らしい絵を描き続けていくのでしょう。

ノベルに戻る
トップ画面に戻る