ノックの返事は返ってこない。
構わず,アリーナはノブに手をかけた。

「・・・開けるよ,ノイエ。いいよね」


扉は奇妙なほど,するりと抵抗なく開いた。
部屋の中は静かだった。少し短くなったろうそくがたてる,ジジっという音まで聞こえた。
ノイエは扉に背中を向けていた。ベッドの向こう側に足を下ろして座っている。

振り返りもしない。
指の先すら動かさない。



そっと扉を閉めてから,アリーナは名前を呼んだ。


「ノイエ」

「・・・・・・あぁ」


耳を疑う。
これは誰の声。聞いていても何も感じない。声に感情が入っていない。


「ごめんな」


アクセントのある出だしと,弾むような息継ぎ。それが彼の本来の声。
・・・そっか,ノイエって声まで元気だったんだ。アリーナは今更ながらそう思う。
いつも,身体全部を使って元気をアピールしていた。少しわざとらしいくらいに。


会話が続かない。勇んで部屋に飛び込んだはいいものの,なんと声をかければいいのか分からない。
暗い部屋の中。アリーナは必死に言葉を探した。

さっきのは夢だから,現実じゃないから。
ノイエにはあいつを倒す権利,あるから。
わたしにとってもデスピサロは敵だよ。

どれも口にできない。
そんな言葉をかけたところで一体,何になるというのだ。





お茶を淹れ終えることができるくらいの時間が過ぎた。
アリーナがそろそろ沈黙に耐えられなくなってきた頃,ふいにノイエの左手が動いた。
ベッドの端をつかむと,ゆっくりとアリーナのほうを振り返った。


「・・・大丈夫だから」


その表情を見た途端,アリーナの視界が真っ赤になって真っ白になって,ぐらぐら揺れた。


「泣けないんでしょ」
「ん?」
「あ,違う。泣いても楽にならないの分かってるから,泣きたくないんでしょ」

アリーナの口から次々と勝手に溢れる言葉。止まらない。
窓のところまで行ってカーテンを開けた。今なお暗い空。北国の夜明けは遅すぎる。


「わたしも同じ。うれしくて泣くのはいいの。でも,辛いときに泣くの・・・絶対に嫌」
「・・・そうかもな」
「でもわたしは」


窓を背に,緑の目を真っ直ぐに見る。


「悲しい顔くらいは,するよ」



ノイエから表情が抜け落ちた。








部屋から食堂までの距離が,アリーナには随分遠く感じた。

うつ向き気味で歩いてきたアリーナに気がついて,クリフトは席を立った。もう涙は出ていない。
アリーナは少しだけ足を速めて傍までいくと,顔を上げずにそのままクリフトにしがみついた。
仲間達の前。しかしクリフトは照れたりせずに,ただ静かにアリーナを抱きしめた。
皆もその場にそっと佇んで,アリーナの言葉を待った。


「・・・やっぱり,わたしじゃ,駄目・・・みたい」

消えそうな声。

「かえって,追い詰めちゃった。笑うことすらできなくしちゃった」
「姫様・・・」
「それなのにわたし,そのまま逃げてきちゃった。
 えらそうなこと言っておいて,何も,できなかった・・・!」


アリーナは泣かない。泣かずに,クリフトの服に顔を埋めた。
クリフトは優しくその頭を撫でた。



朝食の準備に追われる厨房から漂う香り。
いつもなら,「いいにおい!腹減ったぁ〜」と彼が騒いでいたことだろう。
そして誰もが微笑ましい気持ちになる。バターの香りは幸せ度を増す。
そんな日常。ノイエの存在は大きすぎる。



「正直悔しいけど,きっとクリフトなら,大丈夫なんだと思う。きっと笑ってくれると思う」
「・・・・・・はい」
「行ってあげて」


ゆっくりと頷いて,クリフトはアリーナの背中に回していた腕を解いた。
厨房の老夫婦に一声かけると,カウンターの上にある果物篭から,りんごを一つ手に取る。

皆に軽く頭を下げてから,クリフトはしっかりと顔を上げて,ノイエの部屋へ向かった。








窓越しに見える空から星が消えた。地平線に近いところから徐々に,うっすらと明るくなってきた。
ノイエはベッドに腰掛けたまま,ぼうっとその様子を見ていた。


アリーナは自分のことを心から心配して,ここにきてくれた。それは分かった。
でもノイエは,いつものように話すことができなかった。
傷つけてしまったことにも気がついていたが,もうどうしようもなかった。



思い出すのはあの日のこと。
目に痛すぎて切なくなるほど鮮やかな青空と,触れるだけで雫が滴り落ちそうな緑の若草。
さらりと吹き抜ける風が最高に心地よかった,あの,昼。



――弁当を届けに行く途中で出会った,銀髪の吟遊詩人。
初めて会った,村人以外の,人。
夢中で話しかけた。笑った。のんきに自分の笛を披露したりもした。
なぜか初めて会った気がしなかった。
あいつが,あいつがデスピサロだった・・・!

なぜあのときに気がつかなかった?
せめて警戒さえしておけば,地獄を見ずにすんだかもしれない。
シンシアは変わらず俺の傍にいてくれたかもしれない。
今でも毎日,父さんに弁当を届けていたかもしれない。今さらもう遅いけど。


デスピサロを止めろ?
止めるよ。殺すことで止めてやる。それでもいいんだろ?――



夢に出てきたエルフの女性が,ノイエの脳裏でぼろぼろと涙を零した。
何故かシンシアとだぶる。欠片も似てはいない。金の髪と桃色の髪,琥珀の瞳と紫の瞳。
エルフが流したルビーの涙。シンシアが最期に見せた涙。

割り切ったつもりの過去と,処理しきれない憎しみと,二人の涙。


アリーナの言ったように,泣くのは嫌だ。
だからといって,笑ってばかりいる自分は,何なんだろう。
ノイエが笑うと,彼の頭の中でシンシアも笑う。喜ぶ。
でもそれは,ただの自分勝手な幻影に過ぎないのかもしれない。


ノイエは今,全てから抜け出せずにいた。






ノックの音が,3回した。
最近,叩く強さと音の間隔だけで,訪問者が誰なのか分かるようになっていた。


「・・・ノイエ」

名前を呼ばれる。延々と螺旋を描き続けていたノイエの思考を,優しくさえぎる。
なんだかんだ言ってやっぱり,聞きたかった声。
ノイエは扉のほうを向いた。


「入っても,いいですか?」


返事が出来なかった。おぅ,と,たった一言口にするだけでいいのに。
独りにしてほしいなどと,言ってしまったが故に。

クリフトは内側から扉が開くまで辛抱強く待つだろう。たとえ鍵がかかっていなくても。



やがて,カタリと音がしたあと,扉がわずかにきしんだ。
クリフトが扉に寄りかかったのだろうとノイエは想像した。
自分も扉に近づいた。ノブに手をかける。

・・・やはり,開けることができなかった。
ノイエも同じように,背中を扉に預けた。



しばらく二人はそのまま,じっと佇んでいた。
共に戦ううちにすっかり馴染んだお互いの気配だけを,扉越しに感じていた。
窓の外の空が,藍色から薄緑,そして紫へとめまぐるしく変化していく。




再び,丁寧な発音で名前を呼ばれた。
自分の名前がものすごく綺麗に聞こえる。ノイエは目を閉じてその声を聞く。


「私に。聞かせてくれませんか?」
「・・・・・・なにを?」


・・・ようやく出せた第一声がこれか。ため息がもれた。


「あなたの,過去」
「過去」
「ええ。言いたいことだけで,いいから。言いたくないことは,言わなくていい」

クリフトの声が少し張り詰める。

「ノイエ,聞いてくれましたよね。サランで。
 私の過去。誰にも話せなかった想い。言葉に感じる恐怖・・・」


突然,どんっ,と,ノイエの背中に衝撃が伝わった。
クリフトが扉を強く叩いたのだ。


「・・・話して楽になるのなら話してください!
 笑顔でいることがあなたの最後の防衛手段なら,私は絶対にそれを崩させない!
 独りになんて,させるものか!!」



ノイエは息を呑んで顔を上げた。


クリフトは優しい。優しいが,感情的なところがある。
だから最終的には,見守るだけで終わらない。
久しぶりに見たクリフトの激しい一面に,少し動揺した。



「あなたも言ってたじゃ,ないですか。お節介くらい焼かせろって。
 私も,あなたのことを心配しては,いけませんか・・・」


ノイエは強く目を閉じたまま顔を天に向けた。

――きっとクリフトは今,泣いてるんだろうな。
シンシアのこと話したら,もっともっと泣くんだろう。


目を開けたら,窓の外は一面,朝焼けの空。
太陽はもう地平線のすぐ下までせまって来ていた。




つい一昨日の晩のことを思い出した。
皆を守りたいのだと,クリフトとライアンに言ったばかりだった。

それ以上に,自分は皆から守られていたのだ。いろんな形で。




ノイエはノブをつかむと,ゆっくり,時間をかけて回した。
その向こうには予想通り,両の目からぽろぽろと涙を零しているクリフトがいた。
彼は少しだけ驚いたような顔をしたあと,目を細めて笑った。
指で涙を拭う。
拭う後からすぐに,新しい涙が湧き出る。


「・・・目ぇ,腫れてるぞ?」
「さっき一度,泣き止んだんですけどね」
「二回目?」
「はい」
「じゃあまた泣き止んでもらったあと,もう一回,泣かせてもいいか?」
「えぇ」
「・・・ありがと」


自然に浮かぶ,笑顔。



「まぁ,入ってくれよ。・・・茶もろくに淹れれないけどさ」
「私が,淹れます。りんご,持ってきましたよ」
「うさぎにむいてくれな?」
「もちろん」


――独りじゃ,ないんだった。だから,独りで解決する必要なんて,ないんだった。
ちょっとだけそのこと,忘れてた。




いてくれてよかった。
掛け値なしに,ノイエはそう思った。



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小さな後書き

友人がここまで落ち込んだときどうするか。 人それぞれですが,クリフトは,こうすることを選びました。
ノイエは精神的に強い。強いですが,独りで考えて,自己解決するのは,それでもたぶん無理なんです。

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